石ころ

礼拝欠席したこと




日曜日は地域の草刈りだった。
例年は終わってから行くけれど今年は疲れてしまって、足は攣るし汗で冷えた体も調子が悪かったので家に居ることにした。主を礼拝することは何処ででも出来るから・・。

それでも、日曜礼拝は牧師夫妻や兄弟姉妹に週に一度お会い出来るチャンス。何時も感激しておしゃべりというわけではなく、ほとんどお話しすることもなく帰って来ることもあるけれど、お顔を見ただけで安心なのだ。共にキリストの体の各器官なのだから当然だけれど・・。

かしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。(コロサイ2:19)

一人で主を味わうよりも、共に成長して主を分かち合うことを心から楽しみにしている。それは特に言葉にしなくても分かることである。そのことこそ頭なるキリストのお喜びなのだと思うから・・。

大声で賛美できるのも教会の楽しみ、その時私の霊は解放の喜びを味わっている。上手とか下手とかではなく、声に出して共に主を喜ぶことが賛美の楽しさ。そんな私たちの霊の元気を主が喜んでくださっているから・・。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(Ⅰコリント6:20)

キリストのからだなる教会は神の栄光を現すのだけれど、私たちが体を運んで共に集まり、そこにも神の栄光が溢れている。それは数の問題ではなく霊性のことだけれど・・。


 信仰生活は生涯続くものだから色々なことが起こって、そこで主に取り扱われ矯正されたり、慰められ癒された時共に主を喜んだり・・、時にはキリストの忍耐を学ぶことにもなるけれど・・。

しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(Ⅰコリント11:32)

教会は一つのからだではあるが、ひとり一人もまたかしらなる主と繋がっており、日々主から直接教えを受けて、集まったときに共に成長して行くのだと思う。それは牧師は頭ではなく、頭はキリストだからである。
人はどこまでも主に依存して主から与えられるものであり、敬愛していても人に依存するべきではないのだ。人に依存すると「くれない族」になってしまうから・・、それは互いの不幸である。

これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。
すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」(黙示録22:8~9)


ありふれた日曜日、バイクを飛ばして礼拝に出席できる事は、主の大きなお守りであり祝福だと思っている。それはとても感謝なこと。
それでも、何時かそれも難しくなっていよいよ御国に近くなるなら、それはもっと感謝なことである。
主が居場所を何時も備えていてくださるから、どんな時も私の霊は喜んでいる。

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(黙示録3:19)

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