石ころ

捧げものは予め備えられていた(出エジプト35章)

 

 モーセはイスラエルの全会衆を集めて、彼らに言った。「これは、主が行えと命じられたことである。
六日間は仕事をする。しかし、七日目は、 あなたがたにとって主の聖なる全き安息である。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。(1~2)

 

イスラエルの民が幕屋のための働きをするに際して、神は七日目に安息することを命じられた。この仕事は自ら進んですることであって、それは自分の得意なことである。その時人は自分のやりたいことに夢中になる。それが名誉なこと故になをさらである。

 

しかしもっとも大切なことは、すべてを主に聴く従順に拠って成すべきことであり、その働きには主を覚る時が、何よりも必要なのである。
それが主に満たされた力によって始まったことであっても、絶えず主に戻って聴きつつ成さなければならないのだ。なぜなら、自分の最上を成すこと目的ではなく、人の知り得ない神のみこころが成ることだからである。

 

安息日には、あなたがたの住まいのどこであっても、火をたいてはならない。(3)

 

 労働とはお金を稼ぐ働きだけを指すわけではなく、家事なども火を用いるゆえに含まれ、女性にも同じように休息が与えられた。それによって、共に静まり神を喜ぶ時間が与えられたのだ。主は家族ぐるみで祝福される方だからである。

 

モーセはイスラエルの全会衆に告げた。「これは主が命じられたことである。
あなたがたの中から主への奉納物を受け取りなさい。すべて、進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい。」(4~5)


あなたがたのうち、心に知恵ある者はみな来て、主が命じられたものをすべて造らなければならない。(10)

 

「進んで献げる心」という命令によって幕屋のすべての準備がなされるのである。アナニヤとサッピラのような捧げものは無かったのだ。聖なるものは、主が共にいて下さる喜びからあふれ出たものである。幕屋の必要のすべてを神は自発的な献げものによって準備するように命じられた。


それは彼らがエジプトを出る時に、奴隷時代の報酬として受け取った金銀宝石あらゆる材料であり、エジプトでの苦難は幕屋を造るための献げものの備えとなった。
イスラエルが主に捧げる喜びを味わうためであり、彼らの自発的な心は、神が彼らに予め必要を満たしてくださったことから発しているのである。

 

イスラエルの全会衆はモーセの前から立ち去った。
心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。(20~21)

 

すべて主への感謝と、共に居られる神を喜んで心から出たものだけが用いられた。
その知恵や技術の必要は主による選びから出ており、主の促しによって始まったことである。
それは聖なるものであり、神と共に働くことが許された、神が臨在される幕屋なのである。捧げる人々や働く人々には、どれほどに光栄なことであっただろう。

 

また、心に知恵ある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。
心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。
部族の長たちは、エポデと胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石を持って来た。(25~27)

 

神からすべてを備えられた女の働きは、わざと知恵の祝福に満ちていたことであろう。捧げたいと願う者に主は必ず賜物を備えてくださる。それは神の子の光栄な生き甲斐であり、用いられることの深い感謝となる。

 

彼の心に人を教える力をお与えになった。彼と、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブに、そのようにされた。
主は彼らをすぐれた知恵で満たされた。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、彫刻する者、設計する者、青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺繍する者、また機織りをする者の仕事を成し遂げるためである。(34~35)

 

 神は人を母の胎で組み立てられた方であり、キリスト者は神の宮である。日々に抜け落ち、生え変わる髪の毛の数までご存じと書いてある。私たちの必要を仔細にご存じな方である。

 

生身の体は日ごとに変化して調子の良い時も悪い時もあり、一時間前の元気を失ってしまうことさえあるが、すべてを主に知られ生かされている身故に何の憂いることも無いのだ。

不調には直ちに癒やしを求めて祈ること出来るのであり、癒やされた感謝にあふれて主をほめたたえる時を得る。
癒やされなければ信頼して待つことで、信仰を捧げる時を得るのである。それが、永遠の住まいを備えられている者の余裕である。

 

キリストの体でありその各器官であれば、なをさら祝福してすべてを備え、働きのための必要を満たしていてくださるのは神がご真実だからである。
それゆえ命の限り主をほめたたえ、良い時も悪い時も、死の間際も望みに満たされているのである。

 

今も、主のみこころを行う晴れがましい喜びは、幕屋の働きをしたイスラエルの人々と同じである。願う者に主が予め備えてくださった良きものを用いて、神と共に働く喜びである。
主に満たされて心を動かされ、喜びと感謝に溢れて主を迎える働きに参加するのである。我を忘れて・・。


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