石ころ

霊のたまものを捧げる祭司

 

確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。(Ⅱコリント5:4~5)


霊によって賛美し、異言で神さまに祈るのは従順に拠ることである。それは祭司の勤めとしてであり、そのために霊と魂と体を用いる奉仕であって、人の満足のためではなく、主に喜ばれることを願って捧げる祈りである。


たまわりものを埋めないために、勤めて時を割き、体を用いて声を出し、魂を服従させて知らない言葉を語る。
それは感覚に拠らず、知性の理解にもよらず、信仰に拠ることである。その時、知性は捧げものとなり、感情も捧げられ、ただ、みことばの約束に従っての働きである。


そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。(Ⅱコリント5:9)


主はそのために必要な時間、空間、力、従順、確信を備えてくださる。その備えの中で、自分の分である祭司としての役割を果たす時に、霊の先導によって、知性の祈りもみことばも開かれて行く。


このような祭司の立場に拠らなければ、人の善悪による祈りに終始しているだろう。霊に拠らなければ神さまの必要を知ることは無く、信仰は聖霊の充満によって導かれる時に、みことばのご真実を経験して行くのである。
霊のことは、知性は知らないことであり、魂も知らないことである。だから、霊に関することには知性と魂の従順が要求される。


あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。(Ⅰペテロ2:5)


霊は今、個々の奥深くに閉じ込められていて、主を共有する交わりには、越えられない壁があり、教会の交わりに渇いてうめいている。
携挙によって天に上げられた時始めて、何の隔てもなく、神をほめたたえる大合唱を共にするだろう・・。その時は、どれほどの慰めを受けるだろう。それはどれほどの喜びの爆発となるだろう・・。

 


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