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石ころ

火曜日のために (証しの特権) マルコ1章より



人々は、悪霊を追い出し、癒しを行われるイエスさまを「新しい教えだ」と評した。
イエスさまは「唯一」のお方であり、新しい、古いではない。
イエスさまは教えではなく「真理」であって、教えを聞くだけのお方ではなく、従順し仕えるべきお方である。

幾度病を癒されても人は必ず死ぬ。悪霊を追い出して頂いても、主をお迎えしない限り、空き家になった内にはもっと悪い霊がやってきて住み着くだろう。
癒されることだけを求めて集まることは、イエスさまの喜びとはならない。いや、とても悲しいことだと思う。

「お心一つで、私はきよくしていただけます。」と癒しを願う人に、イエスさまは「わたしの心だ。きよくなれ。」と癒され、「誰にも言わないように」と、お言葉に従うことを求められた。
しかし彼の求めていたものは、健康であってイエスさまではなかった。彼はお言葉に従うことなく触れ回った。そんな彼の証はイエスさまの喜びとはならない。彼はみこころではないことを触れ回っただけだから・・。

 シモンのしゅうとめは、癒されて熱病が去ると同時にイエスさまに仕えている。もう自分の体をかばうこともなく、惜しげもなく立ち働き、おもてなししてイエスさまを喜んでいる。
彼女が、体を惜しんで癒しを求めていたのではないことが、イエスさまを喜んでいる姿から見えてくる。

イエスさまが本当にお与えになりたい永遠のいのちには、誰もが無関心で、この世の必要だけを満たそうと、自分勝手な願いを要求する人々の中で、彼女の姿はイエスさまにとって喜びであったろう・・。

 イエスさまはどれほどご自身を正しく知っていようとも、悪霊どもには、ご自身を証する事は許されなかった。

イエスさまを証することは、共に住み、仕え、従順し、まるでイエスさまを目で見、手に触れるように経験をした者に許されている特権である。
その証こそ、それがどんなに稚拙な断片的なものであろうとも、イエスさまの喜びであり、イエスさまの栄光となるのだから。


「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」Ⅰサムエル15:22

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