イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。(マルコ14:3~5)
マリヤのように、今も神様にだけ捧げられた行為が人にほめられることはないだろう・・。
人には彼女が何をしているのか分からないからである。イエスさまの必要を満たしていることは、人の知性によっては理解できないことだから。
もし、彼女が貧しい人のために香油を差し出したとしたら、誰でも彼女をほめるだろうけれど・・。
人は自分の理解できないことは嫌うものだから、主にあっての行為が評価されることはない。褒めそやされる事は、たいがい人間中心から出ていることである。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)
キリスト者の完全とは、イエスさまの必要を満たすこと、神の栄光のために働くことではないか。
イエスさまを語るなと命じられた弟子達は、「人に従うよりは神に従うべきです」と語ることをやめなかった。
マリヤは、誰にとがめられてもイエスさまに香油を捧げることを止めることはなく、弟子はどれほど責められてもますます喜んでイエスさまを語る。それは人よりもまず、神様を愛したからである。
「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」。
イエスさまのためにする立派なことは人は無関心であって、人はヒューマニズムを美しいと喜ぶ。それが人の愛の限界である。
しかし、マリヤはイエスさまのみことばを愛していた。だからイエスさまの必要を感じ取ることも出来たのだ。
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