石ころ

使徒の働き㉗ (使徒14~15章)

 

弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。
また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。(14:22~23)

 

組織に加わることと、イエスを知ることは別のことである。みことばに聴き従うことが無い者は幼子であり、聖霊の導きによって時に責め、祈りとみことばによって養い育て、弟子としてタラントに応じて働く者とされなければならない。

 

さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。(15:1~2)

 

律法に生きて来たユダヤ人は追いきれない律法に一度死んで、キリストと共によみがえらされ、新しい誕生によって滅びることのない、いのちをたまわることは、ユダヤ人も異邦人も同じである。

 

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。(ヨハネ3:5)

 

死を経ることなく、律法の上に福音を積み上げることは無く、律法を福音に混ぜ合わせることは、聖なるものを汚すことである。キリストの完成されたものに、人が何かを付け足ことだからである。

 

しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。
そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。(5~6)

 

律法が死に定めるものであることは、真に律法を生きようとしたら悟ったであろう。もともと形だけの信仰ゆえ、不毛な努力とも気づかず、未だ福音の価値、キリストによる罪からの完全な解放が分かってはいないのだ。

 

救いが人の善行や苦行には拠らず、神のみこころのままにあるということは、聖霊のバプテスマによって証された。
聖霊は律法には出来ないことを一方的にたまわる救いである。その恵みはユダヤ人にも異邦人にも同じであり、ユダヤ人である使徒たちもその恵みを受けたのである。

 

しかし、キリストの律法は、うちなるキリストから、みこころを生きる力が善行となって現れ、人の評価には依らず永遠に価値の変わらぬものであり、神と人の喜びとなる。使徒の働きはすべてこのことによるのだ。

 

激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。

そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。(7~9)

 

ユダヤ人も異邦人も一つの御霊に繋がれている。そこには何の差別もない。
ユダヤ人は律法によって砕かれて新しくされた喜びにより、異邦人は値無に救われた感謝を失わずに、共にキリストの栄光を現わす者である。その価値は等しく共に神の喜びである。

 

「主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる。

「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。
怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる。(イザヤ54:6~8)

 

ユダヤ人を選び愛された神は、その愛のゆえに関係の回復される時を備えて、救われる者を切実な思いで待っておられる。
ただ、すべてはイエス・キリストのあがないに拠ることである。


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