石ころ

使徒の働き㉖ (使徒14章) 

 

ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。
この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、
大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。(8~10)

 

みことばに耳を傾ける。それこそ彼が癒される信仰であった。他の何かではない。
渇いている者がみことばに出会うと、心の戸を開いて耳を傾ける。聖霊によってパウロがキリストの心を宣言した時、それは彼のものとなった。

 

パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。
そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。
すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。(11~13)

 

盲目の民には、肉の目に見えたことがすべてである。目に見えない聖霊の神を知らない中で現わされる奇跡は、何時も危険をはらんでいる。彼らは自分の生き方の中でしか判断できないからである。

 

これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、
言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」(14~15)

 

バルナバとパウロの慌て方が良くわかる。サタンの罠は思わぬ所に仕掛けられてある。
しかし、パウロはキリストに拠って救いのわざを行ったのであり、その時が、彼らが信じようと信じなかろうとみことばを語る時なのだ。


奇跡にはそれが神から発したこと、神によって成されたことを、栄光が神に至るものであることを、分かりやすく語る備えが必須である。

 

過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。
とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」
こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。(16~18)

 

しかし、群衆は理解できず、彼らの計画によるエネルギーは行き場を失っていた。みことばに激しく逆らって、盲目のうちに働くものがあるからである。

 

ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。
しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。(19~20)

 

足なえを癒された主は、石で打たれて殺されたパウロを無傷に守られる。彼の命も健康も主のものである。
死も、傷も、病も、主に知られないものはなく、私たちの恐れるべきは死でも病でもなく主である。

 

パウロとバルナバの平安はキリストからのものであったから、彼らは殺される恐怖を通っても、臆病風に吹かれることさえなく、すぐに立ち上がってみこころを行った。

 

ダニエルたちが七倍熱く燃える炉に投げ込まれた時、主が共に居られ衣さえも無傷であったことを思い出す。

私たちの神は今も同じ神である。


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