石ころ

モーセの働き(申命記9章)

 

私が石の板、すなわち、主があなたがたと結んだ契約の板を受け取るために山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。(9)

 

モーセは飲み食いして生きる命を御前に置いて、食べることも飲むことも忘れるお交わりの中で、民のいのちのためのみことばを待っていただろう。

 

主は、神の指で書き記された石の板二枚を私に授けてくださった。その上には、あの集まりの日に、主が山で火の中からあなたがたに告げられたことばが、すべてそのまま書かれていた。(10)

 

主の御手による石の板には、火の中で語られたみことばが神の手によって記されていた。それはイスラエルの民が祝福の内に生きるための約束である。
しかし神はそのとき、彼らがどれほどに悟りない反抗的な民であるかを見られたのである。

 

そして主は私に言われた。「さあ、急いでここから下れ。あなたがエジプトから導き出したあなたの民は堕落してしまった。彼らはわたしが命じた道から早くも外れて、自分たちのために鋳物の像を造った。」(12)

 

この厳しい状況に在って、主は「あなたがエジプトから導き出したあなたの民」と言われた。
モーセは、「私は主によって用いられたに過ぎません」と逃げることはしなかった。彼がみことばのままに民を負ったのは、神の御心を共有したからである。

 

四十日四十夜の断食にモーセを生かしたのは、御交わりから流れ来るいのちの力であった。それゆえ彼はやつれることも衰えることも無く、石の板を二枚もって山を駆け下り、偶像礼拝を怒ったとき、石板を叩き割るほどの力があった。

 

堕落してしまった民にさえ、約束の戒めを持たせる神の愛をモーセは受け取った。しかしそのモーセには、四十日で神を裏切ってしまう民の不信仰は信じ難いことであったろう。彼には御前にあったそれらの日数は、あっという間であったろうから・・。

 

さらに主は私にこう言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にうなじを固くする民である。
わたしのするがままにさせよ。わたしは彼らを根絶やしにし、彼らの名を天の下から消し去る。しかし、わたしはあなたを、彼らよりも強くまた数の多い国民にする。」(13~14)

 

神がモーセにイスラエルの民の命を、委ねられたようにさえ聞える。主はそれほどにモーセを喜んでおられ、みこころを知る彼に背きの民を嘆いておられる。

 

モーセは神の初めの計画から目を離さかったから、繰り返す四十日四十夜を望みを持って平伏すことが出来たのである。
彼は目の前のイスラエルの民ではなく、神のゆずりの民として主に完成された選びの民を望み見ていたのだ。

 

それはモーセが主を恐れたからである。彼は永遠を支配される神を知っていたから、御許に留まり主に似せられて、神の完全が成就することを望んだのである。

あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

 

彼はイスラエルの民を愛される神の愛の完全を、御交わりの中で知ったのである。それは目の前の行為に絶望することが出来ないほどの、真実で忍耐強い愛であり、主を愛して彼らの為に執り成しをしたのである。

 

主が、モーセから生まれさせる良い民を用いることを提案されても、彼がエジプトから導き出して来た民を惜しんだのは、神の愛の共有に拠ることである。

 

モーセを悩まし続ける民を、彼は神の愛によって愛した。それはまだ見ぬ自分から出る強い民ではなく、主によって守られ、忍耐の中で愛された神の愛の歴史を惜しんだのである。

 

神はやがて、イスラエル民を回復される。それは主の憐みとご真実さのゆえである。また、神と共に働いたモーセの熱心によることでもある。

 

わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。
怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、主は言われる。(イザヤ54:7~8)


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