私たちはもはやがまんできなくなり・・・
あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。・・・
そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、・・・(1.4~5)
迫害のかたちは色々ある、命を狙われるものから霊の圧迫まで・・。しかし、キリスト者にとってもっとも気落ちさせられるものは、不信仰の様を見せつけられることである。
福音がまるで無力な絵空事のような、扱いの様を見せつけられることである。
パウロでさえも、「私たちはがまんができなくなり」「私も、あれ、以上はがまんができず」と避け所を求めることもあったのだ。そんなとき主が喜びを備えて、再び立ち上がる力を準備してくださる。
遣わしたテモテから、テサロニケ人の教会の信仰を聞いたパウロは、慰めと喜びを得た。真のキリスト者の喜びは、伝えた信仰の成長を見ることである。それ以上に嬉しい事は他には無い。それはうちにおられるキリストの喜びだからである。
あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。
私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。(8~9)
キリスト者のうちに居てくださるキリストの愛が、信仰のうちにいよいよ的を射て働くようになり、溢れてくる愛の喜びが、何処までも満ちあふれて行きますように・・。
キリストが再び来られた日に、私たちを責められる所のない者としてくださるのは、ただ、主に身を避けている者に、すべての必要を細やかに満たしてくださる、一方的な神の恵みによることである。
また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。
あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。(12~13)