石ころ

聖霊の宮の備えによって(Ⅰテサロニケ4章)

 

「あなたがたが不品行を避け・・、自分のからだを、聖く、また尊く保ち・・、情欲におぼれず・・、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。」(3~6)


この命令は、自分を見張り続けなければならない事のようだけれど、ご真実な主は出来ないことは命じられない。何時だってすべての必要を満たして命じられる。
十字架の血潮は、すべて過去、現在、未来の罪をきよめて、キリストの花嫁として迎えるほどに、また聖霊の宮として神が住まわれるほどに、義とし聖とする力あるものである。


キリスト者は、バプテスマによって全く新しく生まれた。その記憶によって、罪の支配から解放されていることを覚えている。それでも、自他に対しての罪定めの衝動が起こるのは、新しく生まれた記憶を持たないからであり、自他を罪に定めて肉の思いに縛られるのは、霊にそのキリストの働きの記憶がなく、渇いているからである。十字架を通って新しくされた者であることを、霊が知らされず、新しく生まれ変わった記憶を持たないからである。


新しく生まれた者が罪に支配されないのは、がんばりや努力ではなく、みことばと聖霊の臨在による平安があるからである。聖霊によるみことばの希望が満ち満ちでいるとき、肉の欲望が掻き立てられる余地はない。それは、キリストへの愛が充満しているからで、霊も魂もからだも神の祝福に満足しているからである。


うちにいてくださるキリストのみことばを食べて、キリストに日々養われているからである。人が罪によって支配されないのは、ただ、神の守りによるのである。
それは、キリストが成し遂げてくださった律法を私たちに着せて、良い行いの力を満たして導き、的を射て歩むようにしてくださった結果である。


日々に心の中を罪が通り過ぎることがあっても、それが留まって支配することは、聖霊の宮にはあり得ない。それを知っているから平安なのである。ただ、この福音を拒むときこれらのすべての守りを失うのである。


神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。(7)


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