エサウは父に言った。「お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。私も。」エサウは声をあげて泣いた。(38)
私たちは聖書からエサウの失敗を知らされている。神を恐れることを学んだ上で、永遠のいのちを失うようなことがあってはならない。
あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。(へブル12:17)
滅びからの救いは、生けるすべての人にただ一つしかない。イエス・キリストの救いを信じて罪をあがなわれ、神に罪なき者とされることである。
それは子どもにも、無学であっても、罪を犯した者であっても、キリストを信じることによって叶うことであり、国籍に拠らず、血筋にもよらぬキリストの十字架のわざによる救いである。
父イサクは彼に答えた。「見よ。おまえの住む所には地の肥沃がなく、上から天の露もない。
おまえは自分の剣によって生き、自分の弟に仕えることになる。しかし、おまえが奮い立つなら、おまえは自分の首から彼のくびきを解き捨てるだろう。」(39~40)
エサウの救いは、ヤコブへの恨みから離れて生きることにある。
憎しみや恨みはその相手にがんじがらめになることであり、自分の生き方を見失って自ら滅びるのである。
神の子どもが虐げられた時には、その悪意は神が裁かれる。主にお委ねすることによって、どんな理不尽の中に在っても神の子の自由を得ることができるのだ。
エサウは、父がヤコブを祝福した祝福のことで、ヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」
上の息子エサウの言ったことがリベカに伝えられると、彼女は人を送り、下の息子ヤコブを呼び寄せて言った。「兄さんのエサウが、あなたを殺して鬱憤を晴らそうとしています。
さあ今、子よ、私の言うことをよく聞きなさい。すぐに立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。(41~43)
身を避けることを主が許される時がある。主は戦うことを好まれないから時が来るまで匿ってもくださる。
神の子には負わされてはいけない重荷がある。聖霊が知らせる時は、過去に執着せずに去らなければならない。
ティアティラにいる残りの者たち、この教えを受け入れず、いわゆる「サタンの深み」を知らないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。(黙2:24)
私たちはキリストに身を避けて生きる。世に出て行っても、いつも戻って来るキリストのうちである。
そこで世の嵐から身を避けて永遠の望みの中に安らぎ、必ずみことばを聴いては、新しい力を得て出て行くのである。
兄さんの憤りが収まるまで、おじラバンのところにしばらくとどまっていなさい。
兄さんの怒りが収まって、あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れたとき、私は人を送って、あなたをそこから呼び戻しましょう。あなたたち二人を一日のうちに失うことなど、どうして私にできるでしょう。」
リベカはイサクに言った。「私はヒッタイト人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちのうちで、このようなヒッタイト人の娘たちのうちから妻を迎えるとしたら、私は何のために生きることになるのでしょう。」(44~46)
イサクとリベカの間には主の臨在があり、あらゆる状況においても会話があった。主の計画にあるリベカの言葉はイサクに届いた。
イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じた。「カナンの娘たちの中から妻を迎えてはならない。
さあ立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻を迎えなさい。
全能の神がおまえを祝福し、多くの子を与え、おまえを増やしてくださるように。そして、おまえが多くの民の群れとなるように。
神はアブラハムの祝福をおまえに、すなわち、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫に与え、神がアブラハムに下さった地、おまえが今寄留しているこの地を継がせてくださるように。」(28:1~4)
ヤコブは父の言葉によって、神の祝福の約束を受けて旅立った。兄から逃れる旅であっても、神のご計画の成就に向かっての門出である。