石ころ

最後の火曜日



 イエスさまが神殿のお話をされたのは、(ヨハネ2:19~21)ユダヤ人たちがイエスさまにしるしを見せてくれと言ったときでした。
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

イエスさまは、ご自分のよみがえりを神殿にたとえて言われたのでした。十字架にかかって墓に葬られてのち三日目によみがえることを言われたのでした。

 イエスさまのもっとも大きなしるしは、十字架で人々の罪をあがなって後に墓からよみがえり天に昇られた事です。
その事実を500人以上の人々が見たと書かれています。(Ⅰコリント15:3~8)弟子達はよみがえりのイエスさまを見て、殉教するほどの信仰を得たのです。

お弟子達はのちにこのお言葉を思い出しました。
みことばは出会ってすぐにわかるものではないのですが、必要なときに聖霊によって思い出させてくださいます。
そのためにも、聖書を繰り返し読んで心に蓄えておかないと、イエスさまと意志を通じ合わせるは出来ません。みこころはみことばによって語られ、みことばによって保証されています。


 ペテロは女中の言葉ひとつでイエスさまを裏切りました。屈強な漁師でさえそうなのです。人は弱い者であり、自分がどのような者であるかをわきまえることが出来ません。
だからこそイエスさまの助けと、赦しを日々必要としています。

イエスさまを知っている者は、イエスさまの赦しを信じて泣くことが出来ます。イエスさまの愛深さを知っているので、失敗をしたときもイエスさまを知っておれば立ち直ることが出来ます。
人は誰でも失敗をする者だからです。私たちが何度でも立ち直ることができるように、主は私たちのためにあらかじめ祈ってくださいます。

 今、イエスさまは父なる神様の右の座におられ、私たちのために神様に取りなしをしていてくださいます。また、イエスさまを信じる者におくってくださった御霊も、私たちが祈れないときもうめきを持って取りなし続けていてくださいます。

私たちがどの様な失敗をしても、イエスさまに立ち返るのに遅すぎるということはありません。
ユダはイエスさまを捕らえに来たとき、イエスさまの「友よ」というお言葉に悔い改めるチャンスはあったのです。そのお言葉をちゃんと受け止めたなら、死なずに悔い改めて救いを頂くことができたでしょう。

ペテロは、イエスさまが「信仰が無くならないように」と祈ってくださったとき、嬉しかったでしょうか・・、自分の信仰に自信のあった彼は不満だったと思います。
みことばは、時に私たちの気に触るものであり、不満でわざと聞き流すことがあります。しかし、それこそ大切な忠告であり備えなのです。
 
 みことばを噛みしめつつ読み、日々思い巡らせて生きようとするなら、イエスさまのおことばを聞き流すことはできないはずです。
聞き流すことがなければ、時には苦しむことにもなりますが、それはイエスさまの良き導きの中で起こることです。

主は良い方です。いのちまでくださったお方ですから、ただ私たちに良い計画を持って導いてくださるお方です。恐れないので導かれるままに進めば良いのです。苦しむのはみことばに従順しないからです。

 みことばを覚えても、信じると言っていても、従わないならその信仰は空しいのです。聖書を読むのはそれを行うためです。
でも、「出来ない」そうです。
人にはできないのですが、「神にはどんなことでもできるのです」
私たちの信仰はイエスさまの備えの中で、イエスさまの助けによって進んで行くのですが、私たちは絶えずそのために、自分自身の思いや計画を捧げることが必要です、

アブラハムが一瞬の躊躇もなく、翌朝早くに一人子のイサクを山に連れて行ったように、主が命じられたことにおいては、私たちは自分自身と家族を引き連れて従う覚悟が必要です。(創世記22章)
それは、私たちも私たちの家族も救われるために通らなければならない門です。

神様はイサクを殺されませんでした。ちゃんと山には捧げ物の雄羊が備えられていました。
その雄羊は、今イエスさまです。私たちは捧げ物をもって主のみことばに従うとき、そのことを成し遂げてくださるイエスさまがいてくださるのです。

 神様に捧げる捧げ物は、傷のないものでなければなりません。その条件を満たすものはイエスさまだけだからです。私たちがみことばに従うとき、神様に捧げられるのはイエスさまです。

私たちの捧げ物はすべてイエスさまの十字架を通して清められ、そこではじめて神様に受け入れられるのです。
なぜなら、私たちから出るすべては罪の血筋にあるものであり、どんなに良いことであっても、そのままでは神様には受け入れられないのです。イエスさまへの信仰に拠らないものは神様には受けいれられません。

私たちはお言葉通りに、イサクに薪を背負わせて山に登って行ったアブラハムの行いに習う時、
「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」(創世記22:8)
アブラハムのこのことばの通りに、今も神ご自身が捧げ物とを準備していてくださいます。

そのように従順を捧げるとき、そのあとのすべてのことは、イエスさまが責任を持ってくださることを経験するでしょう。
そのとき私たちは平安に生きることができるのです。これはキリスト信仰において、祝福を受けるためのこつです。


 恐れからイエスさまを知らないと言って裏切ったペテロは、イエスさまのお言葉を思い出して赦しのお言葉を待っていました。
「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

よみがえられたイエスさまは、ペテロの裏切りの数だけ「愛します」という告白をさせて、失われた信頼を取り戻させてくださいました。
そうして、自分の弱さを学んだペテロに、教会を造り上げて行くという大きな働きをお任になりました。ペテロはその働きをイエスさまとともに成し遂げて行ったのです。

 誰であれ、救われた私たちには神様の良きご計画があります。私たちはそれを行う使命を頂いて救われたのです。
イエスさまは言われます「わたしのくびきは負いやすい」と・・だから平安の中でそのことをさせて頂きましょう。

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:29~30)

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コメント一覧

ムベ
ダイエットさん主に感謝します
アブラハムはイサクの意見は聞きませんでした。
先に主を知った者の責任において、淡々と家族を主にお委ねしたのです。
それができたのは、主が良い方であることを信じて疑わなかったからですね。

聖書は素晴らしいです。
ダイエット
最後の火曜日
ムベさんの"石ころ'に来てよかった。
ノ恵み-「渡り鳥かよ!」

ペテロの裏切りの数だけ

主が命じられたことにおいては、私た
ちは自分自身と家族を引き連れて従う
覚悟が必要です。(創世記22章)

ほんとに、こんなアブラハムの解説は
聞いたことがない。ハレルヤ
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