石ころ

どうしてそのようなことに (ルカ1章))




 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」

人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。
やがて彼は出て来たが、人々に話すことができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、口がきけないままであった。(ルカ1:13.18.21~22)


ザカリヤの口が利けなくなったのは、主の備えであった。信仰がないときは黙って聞くことがよい。
不信仰な言葉を口にしないためであり、不信仰によって言葉を曲げないためである。主が黙らせてくださることは祝福である。
人の信仰が及ばないときでも、主はご計画を成し遂げられる。だから、みことばに聴き続けることは大切なことである。自分の信仰には拠らず、主に聴き入ることが必要なのである。

 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ1:28.31~34)

マリヤはみつかいの言葉をまっすぐに聞いている。婚約中であれば結婚後に起こることと、言葉をすり替えることもできるし、賢い理解によって曲げることもできるからである。しかし、それは人の混ぜもので汚れている。

霊の言葉はそのまま受け入れて、マリヤのように問えばよいのである。そうして、
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。(ルカ1:38)

自分の理解を脇に置いて主に告白してマリヤは祝福を受け、その信仰によって人類が祝福を受けた。神のなさることは人の理解を超えている。
イサク、バプテスマのヨハネの誕生も、イエスさまの誕生も神さまのわざによることであり、主のご計画にひれ伏した人々への祝福に拠ることである。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事