さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った。(ルカ20:20)
イエスさまにわなを設けることは不可能である。同じように主に在るキリスト者を罠を掛けようとすることも無駄である。
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。(ルカ21:15)
それゆえ、全知全能の主に在って、造り主なる神さま以外のものを恐れて、みことばを語らなくなることは不信仰である。
「私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
イエスはそのたくらみを見抜いて彼らに言われた。
「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。
すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(ルカ20:22~25)
「支配者に組するべきか」と問う罠に、カイザルの肖像が刻まれた世のものは世に与えよと答えられ、彼らが盗み取っている神の権威は、神に返せと言われた。
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:27)
人は、初めに創造主なる神のかたちに造られた神さまのものである。人の心には造り主なる神さまの肖像を記されてあり、人のいのちには神の銘が刻まれている。それゆえ人は神さまに拠って生き地上での生涯を終えたら、神さまの元に帰ることで、与えられたいのちを全うするのである。
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