石ころ

復活の様子をはっきりと知る(ルカ20章)




イエスさまは悪に対して悪で返すことはなさらない。意地悪に対して意地悪く返すこともお出来にならない。それは神が愛だからである。
サドカイ人の罠に対しても、私たちに素晴らしい復活の様子を教えてくださった。

モーセは私たちのためにこう書いています。「もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。」(ルカ20:28)
次々と死んで行く七人の兄弟の妻になった女は、復活では誰の妻かという意地悪な質問であったが、

イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、
次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。
彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。」(ルカ20:34~36)


イエスさまは此処で教えてくださったことによって、今復活後の様子をリアルに想い描くことができる。
また、二度とは死のない永遠の中で、神の子であることを明確に教えてくださった。
イエスさまの素晴らしいお答えを知った喜びで、馬鹿げた質問をしたサドカイ人に感謝したいくらいである。

死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んで、このことを示しました。
神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。(ルカ20:37~38)


復活によって死なない者とされたのだから、永遠の中で生きている者の生ける神である。とても分かり易い。
主は今もキリスト者と共に生きていてくださる。それをこの世の日々に経験することで、次の世への確信となるのだ。
みことばが真実なことを経験しているから、永遠の約束であると、そのまま信じることができるのである。

イエスさまを知った者には責任がある。聞いた者がみことばを軽んじて、不信仰の中で曖昧に世を生きることは恐ろしい。
今は誰にも聖書が与えられ、深みを求めること、捜すこと、たたくことができる。それをせずにみことばに対してのあいまいは、十字架のいのちをたまわった主の悲しみである。

盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。(ルカ6:39)

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