「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」(ルカ14:15)
と言った人にイエスさまは話された。
「言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」(ルカ14:24)
神の国で主と食事を共にしているのは、彼ら選びの民が軽蔑していた人々であった。
幸いな神の国は、選びの民の不信仰によりすべての人に開放されたが、そこはキリストの弟子の国である。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:26~27)
神の国の招きを断る理由は、世には幾らでもある。
イエスさまを愛するよりも、家族を愛することは世のすることであり、神の愛がわかっていない者の選択なのだ。
母の誰もが子のために命を与えるだろうか、しかし、人は御子の命を賜るほどに愛されている。
女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。(イザヤ49:15~16)
イエスさまの掌には、私たちの罪をあがなった十字架の釘の穴がある。
自分の命を第一にすることは、イエスさまが弟子を守られる権利を横取りしており、主の最善に信頼していないことである。
あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:33)
自分の十字架を負う時は、世にある選択を捨ててみことばを選び、イエスさまだけを望みとして、御足跡を喜び生きるのだ。このことはキリスト者の塩気に拠ることである。
なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。(ルカ12:57)
神の国を選択するのはキリスト者の計算によることである。持って死ねない世の財産ではなく、永遠に滅びることの無いいのちの方を、選び取る判断である。
塩気のないキリスト者が役に立たないのは、神の国の価値を知らないからである。
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