聖霊のバプテスマにも色々な現れがあり、それは一方的に神によってたまわることなので、神の目的や個々の必要によって違うと思う。
しかし一致していることは歓喜で、世では味わったことのない喜びに満たされるが、その喜びの中身が大切であり、それは、キリストが完了してくださった十字架が、自分の身に実現したことを、確信しての喜びである。
あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、あなたを責め立てるどんな舌も、さばきのときに、あなたがそれを不義に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。──主のことば。」(イザヤ54:17)
神から義をたまわった喜びであり、キリストの十字架の死と復活によって、罪に死んでまったく新しく生まれ、絶望の中に在った者が圧倒的な希望を得た喜びである。
そう、神と人を隔てる至聖所の「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」この十字架によるあがないを、霊に於いて鮮烈に経験した喜びなのである。神から隔てられていたものが取り去られ、何時でも何処にいても主に安らう平安、神のお交わりに居らせられる身の幸いの歓喜である。
主に近しくいるほど罪から遠くなる。それはすべてを満たされて満足しており、罪の誘惑が入り込む隙がなくなるからである。そこでは罪との戦いはない。神の愛に満ちた平安の中では妬む必要はなく、飢えもないので貪欲も生まれない。何ものも、その人を誘惑することはできないのだ。
少しの間離れていても、慕わしいお方の元に駆け戻って、渇いた心を満たすことができるから、罪はその人を通り過ぎるだけとなり、その人のうちに宿ることはできない。
聖霊によるたまものは異言もあり預言もあるが、私の経験では異言は感覚的なものではなく、従順による捧げものであり祈りである。異言はたまわった祈りなので毎日用いるが、みことばが開かれるほうが遥かに歓喜する。それは新しく主に出会うことだからである。
預言は歓喜どころか私は苦痛でもある。モーセが王の前に遣わされる時のような重圧である。みことばを語ることには喜びもあり、とても感謝なことであるが・・。
人は完全な無罪の確信がなければ、世に在って責める口実には事欠かないサタンに対抗することなど出来ない。足元をすくわれる不安の付き纏う中で、みことばを真っ直ぐに語ることなど誰に出来ようか。
モーセは燃え尽きない柴によって神に出会うことがなければ、神を神として信頼することは出来ず、ファラオ王に神のことばを伝えることなど出来ないだろう。
彼は、神との交わりがなければその役割を果すことはできないのだ。神を明確に知っているから、信頼して聴いた言葉の望みを持って、恐れつつも出て行くことができるのである。
キリスト者の聖霊のバプテスマは、モーセの燃える柴の経験である。そうして、それは神の明確な計画によることである。なぜモーセなのか、それは神の勝手であり誰もそのわけを知らない。本人にも分からず知る必要もない。
人は全能者への従順がすべてであり、みことばに従う中で導かれ、その時深いお交わりによって育てられ、手塩にかけておのおのの役割を全うさせてくださるのである。
人が何のために生きるのかの答えは此処にある。神のご計画によって生まれ、神の祝福によって救われ、主と共に働くために生きて御許に召されるのだ。それこそ栄化のゴールイン。
人はみな神によって母の胎で形作られた。愛である神の祝福に満ちて・・。神は一人ひとりに良い計画を持っておられる。御子のいのちを十字架にかけて、聖い血潮で罪をあがなったほどに愛されたのだから・・。
彼(キリスト)を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべ(キリスト)は、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」(イザヤ53:10~11)
キリストが十字架の苦しみを負って満足されたのは、罪から解放して私たちを救い出す愛の故である。それは信じる人すべてに成就している救いである。救われた者は神に義とされたのだ。
キリストの火のバプテスマは救いのことばを焼き付ける。その確信によって働くために。
あなたは義によって堅く立てられる。虐げから離れていよ。恐れることはない。恐怖から離れていよ。それが近づくことはない。
見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出たのではない。あなたに攻め寄せる者は、あなたの前に倒れる。(イザヤ54:14~15)