石ころ

ことごとく告げよ(出エジプト7章)

 

主はモーセに告げられた。
「エジプトの王ファラオのところへ行って、イスラエルの子らをその国から去らせるように告げよ。」
しかし、モーセは主の前で訴えた。「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」
主はモーセとアロンに語り、イスラエルの子らをエジプトの地から導き出すよう、イスラエルの子らとエジプトの王ファラオについて彼らに命じられた。(6:10~13)

 

主が命じられたことは「信じさせよ」ではなく、みことばを「告げよ」である。信じるかどうかは、王やイスラエルの民と神の問題であり、モーセが負うことではない。それは神がなさることであり、自分の口を差し挟まないことが謙遜である。

 

まったく、この時のモーセの言葉に耳を貸す者はいなかった。
そう、福音を語っても誰も耳を貸さないかも知れない。尊敬されても居らず、信頼されても居ない者が突然現れて語っても・・。

 

それでも、ただ神の命に従順して聴いた言葉を伝え、開かれたみことばを語り続けるのは、命じられた神に信頼してのことであり、うちにおられるキリストの愛から発した行いである。

 

また、聞き従わない者にみことばを語るのは、其処に神のわざが現われるためである。ご真実な神は、遣わされた者が真っ直ぐに語ったことばの権威を、世に現わしてくださるからである。

 

主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。
あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。
わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で数多く行う。」(1~3)

 

「モーセがファラオにとって神」と言われた言葉は、神のことばとして遣わされるモーセが、自分の言葉を混ぜて語らないためである。神はモーセに念を押しておられる。「ことごとく告げよ」忖度せずにそのままに伝えよである。

 

神のことばを語る者は神の権威をもって語る。しかし、それは人が与えた権威ではなく神からのものなので、その権威に人がひれ伏すことはないだろう。人は人の与えた権威しか認識できないからである。生まれながらの人は、創造主を恐れることを知らないのである。

 

しかし、神から出たことばには必ず結果が伴う。聴き従えばいのちの祝福を受け、無視すれば滅びに至る。それは、遣わされた者がどうであるかには関係なく、神の権威によることである。

 

わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で数多く行う。
しかし、ファラオはあなたがたの言うことを聞き入れない。そこで、わたしはエジプトに手を下し、大いなるさばきによって、わたしの軍団、わたしの民イスラエルの子らをエジプトの地から導き出す。(3~4)

 

神は聴き従う者にだけ語るのではなく、聴き従わない者にもご自身が神であることを語られるのは、すべての人を愛する愛から出たことである。
キリスト者は何時、誰に語れば聞き入れられるだろうと考える必要はなく、時が良くても悪くても、置かれた所でキリストの十字架を語り続ける祭司である。

 

また、どのように語るべきかではなく、神に命じられる言葉をことごとく告げることである。
「そこでそのように行った」とある。モーセは聞き入れられないと分かっていることばを、命じられたままに語った。それは完全な従順である。
それが出来たのは聴いたみことばに信頼したからであり、エジプト脱出への望によることである。

 

神が開いてくださったみことばを伝えても、誰も聞いてはいないと感じることがある一方で、あるいは誰かの心のうちに留まったみことばが、死の淵ででも救をもたらせるかもしれないという、一縷の望みを私は持っている。

 

なを全世界に福音が伝えられた時、キリストが来てくださるという大きな望みがあるのだ。このことはモーセの望みと重なる。


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