石ころ

主の日の備え(Ⅰテサロニケ5章)

 

主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。(2~3)


携挙が近いと、聖書の書かれた昔からわきまえられていた。それは、常に今日か明日かと待ち望むことであり、キリスト者はそのように日々備えて生きる者である。


しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。(4~5)


それが何時なのかを心配することは、日々主にあって生きることを、おろそかにすることである。いつも主に在るなら、携挙がこの瞬間であってもかまわないのである。いや、それが最高の喜びである。


神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(Ⅰヨハネ5:20)


私たちはキリストのうちに居り、キリストは私たちのうちに居てくださる。すでに一緒にいてくださるなら、場所を移される時が何時かは問題ではない。主に在る今が永遠なのである。


それは救いの時に新しくされて、置かれたキリストに居ることである。私たちの確かな備えはキリストのうちにあり、他には無い。
日々みことばに聴き入って思い巡らせ、その望みに留まり、困難な時はイエスさまの御名を呼びつつ、主に信頼して時を待つ日々である。
主は私たちの弱さも強さも知っていてくださり、時に叶った助けを備えて、私たちに良き働きをさせてくださる。


ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。(6~8)


「眠っている」のは霊の状態であり、霊が目覚めていれば体は寝ていても主の守りの中に在る。
活発な活動をしていも霊が眠って居ることがある。それが神から発したことに拠らず、神の関与しない状態に在ることである。それは世には当然のことであるが、キリスト者がその成功に酔っている時は暗やみの中である。


神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。(9~11)


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