石ころ

「死」にある望み(Ⅰテサロニケ4章)

 

兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。
実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。(9~10)


テサロニケ人の教会の愛は互いの間だけに留まらず、すべての教会に対する兄弟愛だった。それも多くの苦難の中で・・、それは教会のかしらなるキリストからの満しによる愛の豊かさである。彼らの拠って立つ所が人からのものではなく、神から満たされる豊かさである。
キリスト者は主が養ってくださる。その中から兄弟を助けることは、天に宝を積む恵みであり、主への感謝と信仰の告白となり、神の豊かさの経験となる。


また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。
外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。(11~12)


主の養いの中で自立し、地に足をつけ世の人々と共に生きて、神さまが世を愛してキリストをおくってくださったように、私たちも世を愛して共に生き、神さまの憐れみと祝福を祈る者である。
ただ、少し違っているのは人に依存する者ではなく、主に依存して生きる者であって、平凡な暮らしの中で、神の奇跡によって生きている者である。携挙のその瞬間まで・・。


眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。(13)


死者に対する淋しさや悲しみは同じようにあるが、キリスト者には再会の確かな望みがあり、今はパラダイスに在る死者に喜びも感じている。それは彼らが、今は世の苦しみから解放されて、主の元にあるという慰めによることである。


私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(14~18)


このような携挙の望みは、みことばから与えられる知識だけではなく、それが偽りではないことを、主だけを頼りとする暮らしの中に、経験しているからである。
常に不思議な助けが祈りにより、時には祈る前に準備されてあり、奇しい神の愛を繰り返し経験しているからである。


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