あなたは天幕の入り口のために、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、刺繍を施して垂れ幕を作らなければならない。
その幕のためにアカシヤ材の柱を五本作り、これに金をかぶせる。その鉤も金である。それらの柱のために青銅の台座を五つ鋳造する。(26:36~37)
幕屋の詳細な設計図を示されて、尊い仕事を発注されたイスラエルの人々は嬉しかっただろう。神に捧げる仕事を命じられることは、神の民の誇りであり生き甲斐である。
奴隷であったエジプトから、モーセに従って荒野を導かれるままに進んで来た民は、それまで主を恐れることを学んでも、自分たちの良いものを捧げる喜びはまだ得てなかったのだ。
忠実に働くチャンスは主への捧げものであり、誇らしいことであって民の一人ひとりに自信を得させたことであろう。
働くとは「傍を楽にすること」と聞いたことがある。それは近しい人を助け喜ばせることでもある。
まして、命じられたことを完成して神に認められるなら、名誉なことなので生き生きとした日々であったろう。
人間は自分に相応しい仕事を得て傍を助けて働くときに、自分の存在価値をも確認して安心できるのである。
ただアダムに罪が入った時から、働く喜びが歪められてしまっている。生きるためだけに、時に奴隷労働のような不当な苦しみを負うようになったのは、アダムから入った罪の結果であり、人は一日一日を生きるために苦しむようになった。
「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。
大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。(創世記3:17~18)
人は皆自分に相応しい仕事を与えられるべきであり、働く喜びの中で生きるべきである。神は個々に必要な能力を備えてくださり、他の人を羨むことも卑屈になる必要もなく、それぞれの誇りと満足を仕事の中で味合わせてくださる。
たとえ、茨やアザミの世の中であっても、主により頼む祭司であるキリスト者には、聖所の働きを与えてくださる。その報酬は主に仕えて永遠に価値のある喜びである。
たとえ試練の日々であっても、やがて聞く「よくやった。良い忠実なしもべだ」なんてお言葉を思い描くとき、ひとりでに嬉しくなって父を見上げる幼子のようになるのだ。
祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの正方形とし、高さは三キュビトとする。
その四隅の上に角を作る。その角は祭壇から出ているようにし、青銅をその祭壇にかぶせる。(1~2)
でもこれらのすべては、神のためではなくイスラエルのための仕事である。真の神にとっては幕屋も神殿も不要であり、祭られなくても拝まれなくても、天地創造の神の権威は何ら変わることはない。
偶像の神々には祭る人間が必要であり、仕える人が居なくなって朽ち果てた偶像や神社を恐れる人は居らず、それらはゴミとなって捨てられてある。
作り主は人間であり人間によって与えられた権威なので、侮られないための大きな建物や、人間の感情を掻き立てるための祭りや行事が必要なのである。
イエス・キリストは人となって地に下ってくださった神である。人の身代わりの罪を負われたとき、兵士や宗教者や民衆にも嘲れられ、茨の冠をかぶせて弄ばれ、鞭打たれ血にまみれ、よろめく足で十字架に向かわれた。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:2~3)
キリストの姿は弟子に裏切られ人に捨てられた姿であり、おめおめと磔になって息を引き取ることは、尊ぶべき神殿が崩れ落ちるような姿であった。
しかし、キリストは三日目に墓からよみがえり、500人以上の弟子に現れて天に昇り、父なる神の右の座につかれた。
イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(ヨハネ2:19)
此処に、真の神は人にどのように扱われようとも神であることが明らかである。神は祭られる必要も仕えられる必要もない。
神殿も幕屋もすべてイスラエルのために備えられたのである。人は目に見えるものによって簡単に心移ろう者であるから。
キリスト者は世でどのように扱われ、どのような評判であろうとも神の子である。人の評価に振り回される必要も崇められる必要もない者であり、ただ主を恐れ、主に愛されてみことばを生きるのである。
聖霊の神がキリスト者のうちに住んでおられ、喜びの中で仕える働きを備えてくださる。それぞれのタラントを用いて、傍を助けて永遠の楽を与えるための仕事を賜っているのだ。