石ころ

神の聖さを悟るために ③(レビ記22章)

 

 

あなたがたが受け入れられるには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの、傷のない雄でなければならない。
欠陥のあるものは、どのようなものでも献げてはならない。あなたがたの代わりにそれが受け入れられることはないからである。(19~20)

 

神の御前に傷も一切の汚れもない方は、唯一神であるキリストのみである。
しかし、イエス・キリストは人となって世に下り、人類の罪を負って父なる神に見捨てられ、御からだを傷つけられて、犯罪者と共に十字架で罰せられて死んででくださった。

 

神は罪の無いイエスを黄泉からよみがえらせたので、500人の弟子に現れ、使徒たちの前で天に昇られた。
キリストは今も神の右の座に座して居られる。主は纏った肉によって人の罪をあがない、神に受け入れられる聖い捧げものとなって、信じる者を救ってくださったのである。

 

人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んで献げるものとして、牛か羊の中から交わりのいけにえを主に献げるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。(21)

 

キリスト者は傷のない神の子とされ、キリストを通して神に捧げられた者である。それゆえ、世にいる間も神の家族のお交わりに、みことばによって、イエスの御名による祈りによって、賛美の中で、近しい関係に置かれているのである。

 

また、あなたがたは、異国人の手から何かこのようなもの(傷もの)を受けて、あなたがたの神のパンとして献げてはならない。これらのものは損なわれていて欠陥があるから、あなたがたは受け入れられない。」(25)

 

世でどれほど優れて清いと見えるものでも、神の捧げものとしてはならないのである。それらは主イエスを信じる血の洗いをもって初めて、完全な聖い捧げものとなるのである。

 

人の魂によって神の聖さを知ることはなく、聖霊によって初めて神を知るのであり、人がすべての知性や、理性、力や、知力を脇に置き、塵芥として御前に遜らなければならないのである。これは聖霊の助けがないと越えられない神と人の淵なのである。

 

主を知る道は狭い道でありただ一つであって、私たちを導くのは唯一御霊である。主が何を求めておられるのか、それをどのように成すべきか、みことばを通して日々に、主の備えを聴き続けなければならない。

 

御霊は主からの聖なるものと世のものを見分ける霊である。神は霊なので霊に拠らなければ、罪を知っている私たちには見分けることができないからである。

 

神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:24)


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