「主よ。私は聖書が知りたいのです。」と思わず叫んだ。
聞きたいメッセージが理解できずに苛立ってしまって・・、みことばは即座に降りてきた。朝の通読箇所だった。
そのようにして、人々はもはや、「主を知れ」と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼がみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。(エレミヤ31:34)
私は一日一章ではなく、気の向くままにどんどん読んだり、一章を繰り返して読むときもあり読み方は気ままなのに、その日の必要にドンピシャなことが度々ある。
朝読んでいるときにはただの言葉が、その時生ける主の備えであったことを知る。
タイミングがあまりにも合っているので、導かれたみことばが主の緻密な備えであると・・、私は主に知られているのだと・・、深い感謝をもって安息することになる。
その時は一つひとつの細かなことを知っているとか知らないとかは、もうどうでもよくなるのだ。
わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。
また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。(エレミヤ31:14)
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事