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石ころ

イエス様の備え


電話で、義理の叔母の訃報を知った。そう言えば、近頃しきりに彼女と一緒に居た頃が思いだされ、恨みに思って当然なことまで、なぜか懐かしく想い出していた。電話を受けて、その訃報の準備が私の中にされていたと知った。

祖父の家で同居していた叔父達の住まいは二階。明るくて綺麗な床の間に、黄色い毛糸で夜会巻きをした人形が沢山並んでいた。義理の叔母は、癇性で完璧主義、他人に厳しい人だった。祖母の死後、中学を卒業したばかりの私に「親も財産も無い子なんて」と面と向かって言った。

私の友人関係を壊されもした。疲れて寒い道を仕事から帰ってきたら、玄関は鍵が掛けられていて入れなかったことが時々あった。じっと待つことは寒くて、用もないのに町中歩き回って叔父達の帰りを待っていた。その当時、私は彼女の期待に添えないことをすまないとも思っていたのだけれど。それは通じなかった。

それでも、私は彼女のわずかな親切を思い出す。手編み機が得意だった彼女が、セーターを編んでくれた。メリヤス編みだけで、ゴム編みの手間も省いたそのセーターに、愛を探って暖かいと思ったこと、授産所で手提げ袋の内職があると教えてもらって、休日などに頑張ってしたこと。給料のほとんどを食費に取られたけれど、夕食のご飯のおひつを、冷めないように毛布で包んで置いてくれたこと。

どうして50年も経った今、こんなにリアルに思い出すのだろう。懐かしささえ感じるほどに・・それも訃報を聞く前から。不思議な神様の備えを思う。私にとって、叔父をすでに亡くして、今、彼女の死は私のひとつの時代の終わり。死ぬほど寂しかった過去が終わったということ。

そんな過去を、イエス様はやさしく覆って、私の心に備えてくださった。憎しみが残れば傷つくけれど、愛が残ればすべてが美しくなる。今はあふれる愛の中に置かれている。永久に変わることのないイエス様の愛と、家族の愛。

1ペテロ 1:24
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」

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