石ころ

気になって仕方がないこと (マタイ6章)




 此処数日は雨の降らない日が無かったから、バイクの私は出掛けることも出来なかった。昨日は、久しぶりの晴れ間に生乾きの洗濯物を干して、「私と洗濯物とバイクをお守りください」とお祈りをして出掛けた。

国道を走りつつ、私は未だ「主の祈り」に思い巡らせていた。それは、私にはとても大切なことなのだ。
マタイ6章にはこのように書かれている。

もし、人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。(マタイ6:14~15)


主の祈りとは順序が違う。
それはなぜ?


 私は、一方的で完全な神の赦しがイエス・キリストの十字架によって成されたことを知った時、この身に罪の重荷から解放されたことを確信した。
そうして、臆することなく「アバ、父」と御名を呼んで祈るようになった。
それは主の祈りの初めのことばでもある。

もう決して責められることのない赦しの中で養われて、恨みや怒りや惨めさや悲しみからも解放され、人をフッと赦すことができるようにされた。もちろん、何度も行きつ戻りつしながらであるけれど・・。
そのような経験があるからこだわってしまう。

 
 信仰に入って、聖書とは違うプリントの「主の祈り」に強い違和感を持っていた。でも、そのような自分の心を抑えて礼拝を保っていたのだけれど、もう正直で居よう決めたのだ。
そうでないと異邦人の祈りになってしまうのではないか・・。

「また、祈る時、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。」(マタイ6:7)

聖書の中に、どうしても成し得ない言葉があるとき、みことばによる脱出の道が備えられてあることを発見する。ただ唱えるだけではなく、それを生きたいと切に願う時・・。

イエスさまは、主の祈りの中で避け所を備えてくださったのだ。まず、一方的な救いを準備してくださって、「わたしに似た者にしてあげよう」と導いてくださる。
みことばを生きようとするなら、その必要は必ず十字架に完成されてあるのだ。

こだわり続けるのは、「私たちが赦すごとく、私たちの罪もお赦し下さい。」なら、私は滅びる他ないからである。


 しかし、正しかろうと時に間違っていようと、みことばが私の心や頭の第一を占領しているかぎり、主は私に語り続けてくださることを知って居いる。それが私の平安の根拠なのだ。
思い続けることは愛していることである。そうして、それは決して片思いではない。なぜなら、歴史にちゃんと十字架を見ることが出来るのだから。

どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しに相応しい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとをまっとうしてくださいますように。(Ⅱテサロニケ1:11)

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