石ころ

訂正します



「てるてるぼうず」において、エリヤの養いを「からす」と書いたのは間違いでした。お詫びして訂正します。
正しくは「主の使い」でした。とんでもない間違いです。他と混同していました。

恐れて弱気になったエリヤへの、主の備えが身につまされて好きな箇所です。
「起きて食べなさい」という主の養いは、私にも励ましのように感じていましたが、大切なことを間違って覚えていました。
「知って居る・・」と思って確認しなかったことで失敗しました。
(Ⅰ列王記19章)

失敗の恥は毎度のことで、恐れないからこんなことをやっているのですが・・、お陰様で正しく覚えられました。
読まれた方には、主が覆って正してくださいますから感謝です。

彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、
「起きて食べなさい」と言った。
それから、主の使いがもう一度戻ってきて、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。(Ⅰ列王記19:5・7)


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コメント一覧

楽しい時を感謝します
ムベ
「聖書は自ら一定のバランスを取ろうとしている様なふしがある」

本当にそう思います。
みことばも相反しているように思える箇所がありますね。
その中で、聖霊の導きに拠って開かれて行く時、今日自分に語られている言葉が明確になって行くのだと思います。
聖書は聖霊の助けによって自分のものとなり、生きて働くものとなります。

善悪の知識の木の実を食べた時点で、私たちの善悪はあやういものになったと思います。
聖霊が否定されるとき動けなくなったり、また、勧められてなりふり構わず突っ走ったり・・、私はそういうふうに導かれます。
すべてではありませんが・・。

聖霊によってみことばが開かれるとき、偉い先生に聞いた知識や善悪や世の流れなどをすべてすっ飛ばして、いきなり胸にストンと落ちます。
そのときみことばはみことばと連携して、主からだと保証してくれるので小さな脳みそに平安がきます。

汚れたものをきよめて用いてくださるお方なので、私さえ神の子の立場に与ったのだと改めて気づきました。深く感謝です。
御交わりありがとうございました。

ふふふ・・長文になり失礼しました。
電気屋
「書き散らしたみたいですが・・このままにしておきます。」

それがよいと私も思います。
私達のブログは、真実なることも、そうで無いものも、またわからない事なども含めて生きてきた1ページ

間違ったり、迷ったり、堂々巡りをしているその姿が、(本人は別として、周りの方々から見て)
なんだか人らしくもあり、どこか微笑ましく、いとおしさも感じるもの、イエスも近寄りがたい機械の様な間違いをおかさないタイプと言うよりは私のイメージではとっても人間的な(当たり前ですが)お方だったと感じています。

「どうして主は汚れた鳥をもって養われたのでしょう。」

主のなさる事は本当に不思議です。
とても知識的になるのと思うのですが
以前から極個人的に思っている事は、聖書は自ら一定のバランスを取ろうとしている様なふしがあるという所で

善悪の知識の木の実を食べた末裔として、これは良い、これは悪いと決めつける風潮が人にはあると思います。
例えば「ユダ」や「パン種」は悪いものという決めつけを解消させるために、主の兄弟「ユダ」や神の国の「パン種」がイエスと言う名にしてもちょっと違いますが「バルイエス(イエスの子の意味)」」という人物を出してます。あとアナニヤさんとかも、、律法は罪があるという事を示すために与えられたのであって、別段カラスが救いがないという事でもありませんから、主の前には主がきよめられるなら全てが聖いのでしょう。

ちなみにロバも汚れた動物ですが、あえてイエスはロバに乗って入場されました。
旧約では「ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。」出12章13節

被造物全てが贖われる事を望んでいるとありますから
ロバの様な愚鈍な私だからこそ子羊イエスが贖ってくださった事が本当に有り難い事です。
そんなロバも主が敢えて選ばれ乗って入場されましたから、どんな動物よりも注目されその栄光を受ける(お裾分けですが)様になりました。

長文になり失礼しました。

ムベ
電気屋さん 本当にありがとうございます。
ふふふ・・これはほっと安心したのです。
実は、「重箱の隅」という題を管理ページで目にして、
どうしよう・・って緊張したのです。

「でも、どうすることもできない」と、まな板に乗った心地で開いたら、電気屋さんのからすのお話で、「ああ。助かった!」でした。

すべての鳥。そうですか。
丁寧に教えてくださってありがとうございます。
不思議に思っていたのですが、
どうして主は汚れた鳥をもって養われたのでしょう。

預言者をカラスによって養うといことは・・、
キリスト者も世にあっても、結局は主に養われているということ・・私たちの選択ではなく・・。

汚れたものをも清いことに用いることが出来る・・。
主に触れられたものはすべて聖い。

ああ、ペテロが汚れたものを「屠ってたべなさい」といわれましたね。異邦人伝道の時・・。

尋ねているうちに、なんだか解けてきたように思います。
ありがとうございます。
書き散らしたみたいですが・・このままにしておきます。



電気屋
重箱の隅
一応でございますが、、
列王記17章19で使われているのは

「オレヴィーム」 (オレヴの複数形)で

レビ記11-15と申命記14-14に
同じ言語が使われている様です。

すべての烏(からす)の類
これらは知性を用いての事でしかありませんが、僭越ながらコメントさせて頂きました。
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