石ころ

モーセはひれ伏した ②(民数記16章)

 

あなたは、われわれを乳と蜜の流れる地から連れ上って、荒野で死なせようとし、そのうえ、われわれの上に君臨している。それでも不足があるのか。(13)

 

すべてはモーセから出たことではなく、神に拠ると理解できないのは、モーセやアロンに対する妬みによって、物事が真っ直ぐに見えないからである。事実を真逆にする心には、神に逆らうものが住んでいる。彼らが神の存在を無視しているからである。

 

モーセは彼らに君臨したことはなく、執り成し仕えているのであることを神はご存じである。それゆえ、この言葉に対してモーセは言い訳をする必要はない。

 

しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地にわれわれを導き入れず、畑とぶどう畑を、受け継ぐべき財産としてわれわれに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。われわれは行かない。」(14)

 

いやいや、彼らがその地を拒絶したのである。事実がわずかな時の間に捻じ曲げられて行く。肉に煽られる感情によって、目がくらまされているのは彼らである。

 

モーセは激しく怒った。そして主に言った。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取り上げたことはなく、彼らのうちのだれも傷つけたことがありません。」(15)

 

モーセは故も無く責められたことに怒って、主に無実を訴えた。
キリスト者も責められたり、訴えらたりすることがあるが、神の子が裁きを求めるのは神である。
怒りも、嘆きも、喜びもモーセもキリスト者も、主に申し上げる関係に在るのだ。

 

彼らはそれぞれ自分の火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンと一緒に会見の天幕の入り口に立った。
コラは、二人に逆らわせようとして、全会衆を会見の天幕の入り口に集めた。そのとき、主の栄光が全会衆に現れた。(18~19)

 

彼らが来たのは、モーセに逆らうためであり、民を煽って逆らわせるためである。
イエスの裁判で、群衆に「十字架に付けろ」と叫ばせた宗教家たちを思いだす。世では真実がいとも簡単に葬り去られて、感情に訴えて捻じ曲げ、群衆を愚かさに引きずり込む。それはこの世の支配者が、嘘つきのサタンだからである。

 

しかし、神はサタンをも利用してご自身の計画を遂行される。必ず裁くべきものを裁き、救い出すべき者を救われる。何ものも神を罠にかけることは出来ない。
十字架はイエスの喜びとなり、神のご計画は完成した。今、すべてのキリストを信じる者を、世の滅びから贖い出して、永遠の御国に迎えるのである。

 

主はモーセとアロンに告げられた。
「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしは彼らをたちどころに滅ぼし尽くす。」
二人はひれ伏して言った。「神よ、すべての肉なるものの霊をつかさどる神よ。一人の人が罪ある者となれば、全会衆に御怒りを下されるのですか。」(20~22)

 

モーセは驚いて、イスラエルの民が共に滅ぼされることが無いように、主に願って執り成した。全滅からの執り成しはこれで二度目である。

 

神の御怒りによる裁きに、モーセが口を挟むことが出来るのは、主との深い関係があってのことである。そうでなければ、どうして命の創り主であり、王の王である方の裁きに、口を挟むことなど出来るであろう。

 

主はモーセに告げられた。
「会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から引き下がるように言え。」(23~24)

 

主は即座にモーセの執り成しを聞き入れてくださり、裁きは限定された。このことはイスラエルにとって、大きな主の憐みであった。しかし、民はこのモーセの働きも知らない。モーセは主に命じられない限り語らないからである。

 

モーセは言った。「私を遣わして、これらのわざを行わせたのは主であり、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたに分かる。
もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の定めにあうなら、私を遣わしたのは主ではない。(28~29)

 

コラとダタンを裁くのは神であることを、彼らが目で見て知るようにモーセは予め語った。それは、彼らが神を恐れて生きるためである。
すべての人と同じように生きて、時が来て死ぬなら、それは神のわざではないのである。

 

しかし、もし主がこれまでにないことを行われるなら、すなわち、地がその口を開けて、彼らと彼らに属する者たちをことごとく呑み込み、彼らが生きたままよみに下るなら、あなたがたはこれらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」
モーセがこれらのことばをみな言い終えるやいなや、彼らの足もとの地面が割れた。(30~31)

 

この超自然な出来事の中に現れたことは、天地創造の神の義に拠るわざである。彼らは神を恐れることを学ぶのだ。
モーセの言葉の中に居られるのは神であることが、見ている民の目に焼き付けられ、モーセのことばの中に居られる神を恐れることを、大きな犠牲のもとに学ぶのである。

 

彼らと彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下った。地は彼らを包み、彼らは集会の中から滅び失せた。
彼らの周りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地がわれわれも呑み込んでしまわないか」と人々は思ったのである。(33~34)

 

彼らの恐れには根拠がある。彼らもモーセに逆らっていたからである。

 

また、火が主のところから出て、香を献げていた二百五十人を焼き尽くした。(35)

 

偽りの働きが焼かれてきよくされた。みことばに従順することなく、主に仕えることは偽りだからである。


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