誰よりも主が、彼らのことを最も心配して働いて居られるということを覚えていないと、今しも主が信仰の深みに導いて、追い込んでおられるかもしれないときに、横から安易な助けを与えてしまったり、気休めのような言葉を語ってしまって、主のご計画のお邪魔をしてしまうようなことがあってはならないと思う。
また、頼られ、頼るという依存関係にどっぷり浸かってしまって、助けることを宗教にしてしまい、それが何時か生き甲斐になったりすることもある。また、助けられる甘さを信仰の甘さと勘違いしてしまっては、その人が直接主とお出会いする邪魔をしてしまうかも知れない。
こんなことを話している私は、こんな話をするのに最も相応しくない者、愛のない者なんだけれど・・。交わりを避けて退き、黙って待っている、そんな淋しさの中で考えている。
今日はホトトギスもウグイスまでも静まっている。ただ、雨がしとしとと開きかけた紫陽花を濡らしている。
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26)
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