石ころ

備えられて





 「遠い所を何度も来て頂いて、いつまでもはっきりしなくて申し訳ないですね。連休をゆっくりしてください。」と医師に言われた。検査の間の2週間ほどの休暇に過ぎないのだけれど・・。

以前チラッと検査入院のことを話されたこともあったけれど、私たちは何時も一緒にいて、一つひとつイエスさまと相談しながら事を進めたいから・・、毎度、毎度電車に乗ってガタゴトと通い続けて来た。

主人の病状は「稀なもの」らしい・・。最悪であることははっきりしているが、そのような痛みの実感は幸い今は無く、絶望も混乱もない。
それでも、続く検査に私たちが疲れて時にぶつぶつ言っていると、聖霊はハッと思い出させてくださる。

「イエスさまの許されないことは、何一つ起こることがないもんね。」
「そうや!」
主人の力強い「アーメン」に疲れは一瞬にして吹っ飛び、車窓の緑の瑞々しさへと話題は自然に移って行く。

これらは、主人と共にイエスさまを喜ぶための備えなのかも知れない・・そんな気がする。
事実、今日もよく食べられること、よく眠れること、よく笑えること、今日在ったことのあれこれを語りながら・・その一つひとつを、イエスさまに感謝することが日常となった。


 
 今回のことで、主人の限りある命という事実に直面した時、私の中に焦りのように来たのものは、主人の信仰がどのようなものなのか・・ということ。もっときちんと話して伝えなければ・・という思い。

しかし、私たちが結婚している者であるならすでに一体である。というみことばの事実に気付かされた。
私たちの信仰はひとつなのだ!それがわかったときの平安。
大切なのは夫の信仰を探ることではなく、私が主を知ることであり、私が主に安息して居ることであると・・。


 昨日、おばあさんを病院に連れて行ってくれた義妹から連絡が入った。
先生が、「もうステントの必要はないですね。あのときしなくて良かったですね。」と言われたとのこと。彼女と心から喜び合って、自分たちの選択が間違いでなかったことに大きな安らぎを得た。検査結果にも異常はなく、おばあさんの元気は本物であった。

電話を切った後、イエスさまに感謝が溢れてきた。なんと主はご真実であるかと・・。彼女のたった一言「祈って」その祈りをイエスさまは聞いてくださった。人には真実はないけれど、主は常にご真実なのだ!



 私たちの現実は、今この世で見ていることではなく、主にあって起こることである。主を通して来るものが私たちの現実なんだ。それはいつもまだ見ては居ないけれど・・喜びつつ信じてワクワクと待っている。

以前、私も膵臓癌の疑いで検査が続きercp検査を拒否して、脅されつつ無理やり退院したことがあった。
その後、「やはり違ったのですね」という医師の言葉を聞いたことがあった。

でも、その事は私には無駄ではなかったと思う。あのとき私は、涙を流してこの世の命のいとおしさにも気付かされた。
イエスさまが備えてくださった天の住まいにあこがれつつも、この世にある命もまたとても愛おしいのだと・・。

でも、そのことを誰よりも造り主は良く知っていてくださる!
私たちの最善ではなく、主の最善が成る身であることを知っているから・・だから、イエスさまに背負われ死の影の谷を歩む時も、ただ主の温かさと力強さの中に、私たちはまどろむことができる。


まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(詩編23:6)

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