石ころ

日曜日はイエス様のお話を聞く 1.21


メッセージ 「ピラトの前のイエス」

ユダヤの暦では1日は夕方から始まります。安息日は金曜日の日没から始まるのです。聖書に出てくる神さまの最初のことばは何ですか。「光よ。あれ。」(創世記1:3)です。
 光はやみと区別され、やみは光と交わることはありません。創世記を見ると、「夕があり、朝があった」(創世記1:5,8,13,19,23,31)と繰り返し書かれています。人は夜眠り、朝、光と共に目覚めます。神は私たちに十字架の死と復活という深い摂理を覚えさせるべく、眠りという小さな死をお与えになりました。

 聖書に書かれている最初の眠りはどんな内容でしょうか。それは、アダムの眠りです。(創世記2:21~24)この眠りは、アダムにとって本当の助けてとなるべき者を生み出すための眠りであり、十字架の死を象徴しています。アダムはイエスの雛型であり、エバは教会を表しています。

キリストがローマ兵の槍によって脇腹を刺され、その肉体の死を確認されたことは、ご承知の通りですが、エバがアダムの脇腹から生まれてくると言うことは、その事実を予表したモデルなのです。
「アダムによって死が全人類に入ったように、最後の人イエスによっていのちが支配する」(Ⅰコリント15:45,ローマ5:12~21)と書かれています。

 さて、実際に十字架の場面の記事を見て参りましょう。(ルカ23:1~23:12)光と闇のことをお話ししましたが、イエスという光は、人の世の闇、人の心の闇、人の心の闇に隠れているものを暴きます。十字架が近づくと、それはいっそうはっきりします。イエスさまだけが光であって、世は全くの暗闇であることが明確になります。イエスさまだけが栄光を受けるにふさわしい御方であり、人の虚栄心や誇りがいかに情けないものであるかが露わになります。表面は整っていても、その内側の動機が薄汚れたものであることは、イエスさまが繰り返し指摘されたところです。

 まず、十字架をとりまく周辺の状況や反応について、よくご承知の方も多いと思いますが、念のために整理してみます。イエスさまは「ユダヤ人の王」として刑を受けますが、このあたりの整理が出来ていないと、ヘロデとピラトの間でたらい回しされたり、「ユダヤ人の王」という称号がいろいろ問題になったりすることの意味が不明瞭になります。

 イエスさまの時代は、ユダヤの国はローマ帝国により支配されていました。そのローマの総督がピラトで、彼自身が自らの口で語っているように、彼こそが囚人を死刑にする権限や釈放する権限を持っているわけです。このローマの支配下には、イエスをむち打ったり侮辱したり、実際に十字架刑を執行するローマの兵士がおり、そして、「この方はまことに神の子であった」と感嘆のことばをもらす百人隊長もいます。

 一方ユダヤ人はと言えば、ユダヤの領主をローマ帝国から委嘱されて治めるかたちで領主のヘロデがいます。そして、大祭司のカヤパがいます。ことは過越しの期間中に起こっていますから、カヤパなどはピラトの居る総督官邸には入ろうともしません。異邦人の領域にはいると汚れて過越しの食事が食べられなくなるからです。(ヨハネ18:28)律法学者やパリサイ人というユダヤの宗教指導者達が居て、これが群衆を扇動するのです。そして、最後に裏切る弟子たちは全員ユダヤ人です。

 それぞれの人の心の中にあるもの、その本質が十字架の前に明らかになるわけですが、今日はローマ総督ピラトにフォーカスして、ともに考えましょう。ピラトは「カイザルに税金を納めない」「王キリストだ」と言っているという訴えには応じないわけにはいかないわけですが、ピラトは、イエスさまには訴えられているような罪はないことに気づきます。それでも、祭司長や群衆がしつこく言い張るので、ヘロデに判断を押しつけるわけです。
 
 ヘロデの反応も結構詳しく書かれています。ヘロデはイエスさまを見ると喜びました。「非常に喜んだ」と書いてあります。イエスさまに会いたいと思っていたのです。奇跡も見たいと思っていたし、いろいろ質問しています。イエスさまは何もお答えになりませんでした。その動機が腐り果てていたからでしょう。ヘロデはまともに相手にされないことを怒り、イエスさまをさんざん侮辱してから、ピラトに送り返します。

 ピラトはもう一度イエスさまには訴えに当たる罪はないということ、死罪には全く不適当だということをユダヤの祭司長や指導者たちに伝えますが、聞き入れられません。ピラトはイエスさまを取り調べるうちに、逆に自分が取り調べられているかのような不思議な感覚に陥り、自分の権限で死罪を命じることにおそれを抱き始めます。そこで何とかユダヤ人達を納得させて釈放する手だてはないかと考えます。(ヨハネ18:33~40)

ピラトはイエスさまに質問しています。
「あなたはユダヤ人の王ですか」(33)これは、罪状に対する審問のつもりでしたが、ユダヤ人の王であると言うことは、単純にある地方や民族の指導者という意味だけではないので、イエスさまは逆に問い返されます。「あなたは自分でそのことを言っているのですか。それとも他の人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」(34)

 ピラトは、この問題はユダヤ人の宗教上の問題、つまり特殊な人たちの信仰や習俗に関する問題であって自分には関係ないという立場、そして、出来れば具体的な判断や決定を避けたいという態度を取ろうとしたのです。これはこの世の知恵や権威を持つ人たちが、人となられた神であるイエスに対してとる象徴的な立場や態度です。

 話は進んでいきます。イエスさまは、「自分の国はこの世のものではない」と、言い、「真理に属する者はみなわたしの声に従う」と言われるのを聞いて、ピラトは、イエスさまの存在が自分にも何らかの影響を及ぼすのではないか、という不安と恐れにかられ始めます。(36~37)

この不安と恐れから逃れるために、祭りの時の恩赦の習慣を利用しようとします。その引き合いに出された人物は、イエスさまとは正反対で、誰もが認める赦され難い罪を犯したバラバと言う強盗犯人でした。ピラトは最後の手段として、この名を知られたバラバという悪党を引き合いに出し、これを釈放すると提案したわけです。

つまり、誰かひとりに恩赦を与えるとするなら、この危険なバラバと言う男を野に放つよりは、さすがに「それならイエスを釈放してくれ」と言うに違いないと思ったわけです。ところがどうでしょう。群衆はみな指導者に扇動され、「バラバを釈放してくれ。」と叫ぶのです。(44)

 これはピラトにとっては思いもかけない展開だったでしょう。あのバラバラを引き合いに出せばいくらんでも、「イエスでなくバラバを釈放してくれ。」とは言わないと思っていたはずです。ピラトはどうしてよいかわからず、とりあえず、イエスさまを捕らえてむち打ちます。そして、もう一度群衆の前に出てきて、イエスさまを示します。群衆はますます激しく叫びますが、ピラトは「あなたがたがこの人を十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません」(ヨハネ19:4)と宣言します。そのあたりから続きを見てみます。(ヨハネ19:1~16)

 此処まで見てくると、私たちはあることに気づかされます。それは、私たちはみな、自らの意志で十字架に架かろうとしているかに見える、この罪の見あたらない人物イエスを評価するピラトと同じ座、同じ地位にいると言うことです。

 ユダヤ人の証言はますます、ピラトを恐れさせます。
「この人は自分を神の子としたのですから死刑だ。」(7)と言うのです。ピラトが裁いてきた事件の中で、「自分を神の子だ」と自分で宣言したという理由で死刑になった者などいません。しかも、この方は自分が見たところ、何の罪もない。むしろ自分の心の中をのぞかれているような感じさえするわけです。

 ピラトはイエスが自分に引き渡されたのが、ユダヤの指導者の妬みによることに気づいていたとも書いてあります。(マタイ27:18)これは非常に重要な情報です。さらにピラトが裁判の席にいる時に、ピラトの妻からの使者が来て、イエスの死刑には関わらないようにと伝えています。(マタイ27:19)
 最終的にはピラトは群衆の暴動を恐れて、自分には責任はないから好きにしろと言う態度を取ります。(マタイ27:24)

 実はある程度聖書の中身を知っている人の中には、イエスさまのことを否定しなくても、むしろ一定以上に認めつつも、このピラトのような態度で「自分には関係ない」「責任がない」と言って、手を洗って一歩引いている人たちが多いのです。

 イエスさまに罪を認めなくても、イエスさまが正しい御方だとわかっても、イエスを取り巻く人々の罪を見抜いたとしても、たとえ、この御方が神の子だと理解したとしても、自分の罪を悔い改め、その罪のためにいのちをあたえて下さる方として信じ受け入れることがないければ、イエスさまとの関係は生まれません。救われることはないのです。

「私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。・・・云々」(Ⅰテモテ6:11~16)

 「すべての者にいのちを与える神」と、「ポンテオ・ピラトの前のイエス」が対にして書かれています。ピラトに裁かれるイエスは、そのすばらしい告白を除けば、むち打たれても、嘲られても抵抗しないひとりの弱々しい人間の姿をしています。そしてこれから彼は十字架に架かるだけの、支持者がひとりもいない王なのです。しかし、パウロはこのピラトの前のイエスこそ、闇の世界に対する「光」であり、死の世界を蘇らせる「いのち」であると言っているのです。

 このように聖書全体を見てみると、なぜ私が十字架のお話をするのに、天地創造から話し始めたかがおわかり頂けると思います。
 十字架は私たちの理解を遙かに超えた神の壮大なご計画の中心です。
「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただ一人の死のない方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たこともない、また見ることもできない方」を心から賛美しましょう。

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