サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。(6)
恐れないで善を行うことができるのは、神を恐れることを知っているからである。神を恐れる者は人を恐れない。
家庭が他人の目やうわさ話を中心としているなら、その家族は善を行うことはできない。その家の中心は神の愛ではなく、人の目であり其処に平安も安息もないからである。
同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。(7)
夫婦は一心同体である。夫が妻を尊敬することは自分を大切にすることであり、弱い妻に重きを置くことは自分自身の弱さをもいたわることになる。その一つの平和の中でこそ祈りの時が豊かな実を結ぶ。
主婦という仕事は、日々自分の成果を味わい続けることができる。
洗濯物がパリッと乾いたら幸せであり、食材が安く手に入ったら幸になる。料理が美味しく出来上がって家族がパクパク食べる姿を見る幸せがあり、人参を残す子に、ハンバーグに入れて残さず食べさせた時には、してやったりの勝利の微笑み。
以前は木綿の布団を夏になると仕立て直し、冬になると布団を抱えて太陽に干し、家族がお日様の香りいっぱいの布団に眠っているのを見て、ひとりで悦に入っていた。
障子も襖も網戸も張り替えて綺麗になった部屋は、何にも比べることのない満足感でいっぱいになったものだ。
それらは誰にも命じられてのことでなく誰にも評価されないが、労苦した本人が一番嬉しく、その達成感は人の誉め言葉や、感謝の言葉など不要の確かな遣り甲斐である。
家族の平凡な暮らしを、天候や季節、家族の体調を考えて守ることは誰の指示でもなく、自由と主婦の権威の中で、家族に自分の心地よさを重ねる思いのままにすることである。限りある経済の中で遣り繰りすることも、主婦の腕の見せ所である。
それはすべて自分で選び取って、自分の手で働いて用意したものであり、誰の真似ではなく家族を自分の理想の色に染めて行く過程である。
主婦は家族を助けて健やかに育てる根のようである。良い時も悪い時も根は必要を備えて命を支え守るのだ。
その中に在って夫が元気に働きに出て行き、子どもたちは、セーターを編みなおす必要が出て来るほどに育って行くのを見続けて、確かな成果を味わうのである。
主婦業とは長期を見通して計画的に備え、また独創的な力を振って自由を楽しむ場であり、能動的な存在であって此処から社会が生まれて行く。
国が敗れた時さえも今日を落ち着いて受け入れ、夕食を淡々作って家族の体を守り心を支える存在である。社長も学者もそのような助け手によって生まれるのである。
神は女を助け手として創造されたのは、永遠を見通してのことである。