石ころ

真ん中を行く



イスラエル人であると言うことにあぐらをかいている民に、イエスさまが語られたのは、
預言者エリヤが遣わされたのは異邦人のひとりのやもめであったこと。預言者エリシャが遣わされたのは、多くのライ病人のうち異邦人のナアマンだけであったこと・・。

それは、生まれによって救われるわけでないということ。
生まれはイエスさまの郷里という、最も救い主に近い場所でありながら、異邦人の地よりも遠い人々・・皮肉なことである。
最も身近でありながら救い主がわからなかったのは、イエスさまの兄弟たちもそうであった。

「すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。」(ルカ3:5~6)


このことが起こるとき、遠くで渇いていた人々は近くに引き寄せられ、当然と思っていた人々は謙遜な悔い改めに迫られる。誰であっても、救いは一方的な神の憐れみによることであるから・・。

痛い事実を示されて怒った人々は、羊を殺すときのように谷に突き落とす方法で、イエスさまを殺そうとしたけれど、主はその人々の真ん中を通って行かれた。
イエスさまのいのちは父なる神さまに委ねられており、その時はイエスさまの従順によって決まるのである。

「しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。」(ルカ4:30)

「そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。」(ヨハネ7:30)

「イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」(ヨハネ8:20)


キリスト者の人生もまた主の内に握られており、本人の選びによって進路は変わるけれども、世に弄ばれ殺されることはない。
それはイエスさまを戴いている身であるから・・。従順するときそこには必ず神の良い計画が成る。それは究極、御国への凱旋であるのだけれど・・。

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