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石ころ

お手伝い


昔の子供達は、みんな家の大切な労働力だった。学校に行く前に玄関先を掃いたり、朝食のお膳立てをしたり、学校から帰ったらお風呂に水を張ったり、田舎では草むしりや、御茶摘みを手伝ったり、結構遠くまでのお使いで、暑い道を重い荷物を持って歩かなければならなかったり、それは子供でも一人前にきちんとするべき事とされていて、手抜きは許されなかった。そんな中で自然に責任感が養われていった。

また、それは家族であれば当然なすべきことで、きちんとしたからと言って特別に誉められるわけでもなかった。時には嫌々することもあったけれど、そんな中で、家庭に自分の居場所を確立していたように思う。自分がこの家の中では重要であり、居ないと家族が困ることを日々の営みの中で知っていた。

確かに子供の働きが必要であって、子供の躾のためだけにさせているのではなかった。もし、そうなら子供はすぐに察してしまう。誰かのために必要とされいるから意味はある。自分のためだけと分かったら虚しいだろう。人は自分のためだけになんて生きられない。子供ならなおさらそうだ。親の喜ぶ顔を見ただけで、親のホッとした顔を見ただけで、「ああ、私が居たから良かったんだ」それが喜びであり、自信となった。

毎日、子供は親を喜ばせたいもの。大げさなほめ言葉が無くても、子供は自分が役立った時にはすぐに分かる。頼りにされていることが分かっている。子供だって頼りにされたい。助けてあげたい。
「良い成績を取って、将来あなたが苦労しないようになってくれるのが一番嬉しい。自分の夢を実現してね」
なんて言われたら、捨てられたような気がするだろう。今、親に喜んでほしいのに、今、この家庭で自分の必要を確かめたいのにと思うだろう。


神様は毎日の生活の中で、私たちを子として訓練してくださる。神様を喜ばせる様な良いものを私たちは持っていないけれど、神様は小さなことでも、喜んで受け入れ愛してくださるお方であると知った時から、私は安息することが出来た。

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