火曜日の交わりのことで、ヨハネ18章をどのように・・って悩んでいたけれど、ユダのこと、ペテロのこと、イエスさまのことと、3回に分けるように導かれた。
昨日はペテロのことを中心に交わった。
彼女は此処で、思わず「私だったらどんなことがあっても、イエスさまを知らないなんて言わない。」と言われて、「それは、ペテロと一緒ね。」って笑ったのだけれど、真面目にそう言い切る彼女が、なんだかとても微笑ましかった。
きっと、イエスさまもそのように御覧になってくださっているのだろうなぁ・・。
人は誰でも失敗をする、軽々に語って失敗をする。また、はっきりと語らなければならない所で、黙ってしまって失敗をする。
ペテロの失敗は、いつもイエスさまの御前での失敗だった。イエスさまを求めて求めての失敗だった。イエスさまは、どれほど彼をいとおしまれたことだろう・・。
ユダの失敗は違っていた。ユダはイエスさまを離れて闇に出て行って犯す失敗。そうして、最後は自分で失敗を償おうとした。・・でも、それは地所を汚れた血で汚しただけの行為。なんと憐れなことだろう。
ユダは確かに彼の働きがありそれをした。けれども、イエスさまは彼を使い捨ての道具のようには扱ってはおられなかった。
最後の最後に「友よ。」と言われた神は、人を使い捨てるようなお方ではない。人が神を使い捨てるのだ。
ペテロは失敗をして、激しい後悔の中に居ても、イエスさまへの望みを失うことはなかった。それは彼がいつも側にいて主をよく知っており、イエスさまのみことばを覚えており、祈りのことばを聴いていたから・・。彼は自分の失敗を自力で取り戻そうとはしなかった。主の御手にすべての裁きを委ねて待っていた。
そうして、ペテロは聖霊を受けて生まれ変わった。
彼の、「あなたのためなら、いのちも捨てます。」その告白のとおり、彼は愛するイエスにすべてを捧げた。そのことを主がさせて下さった。
ペテロにもし、失敗がなかったらどうだったのだろうと思う。
失敗なんてちっとも恐くはない。ただ一つのこと「主に在って」このことがすべてだけれど。
あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。(詩編31:19)
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石ころ
Unknown
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