石ころ

モーセの手(申命記34章)

 

モーセはモアブの草原からネボ山、すなわち、エリコの向かいにあるピスガの頂に登った。主は彼に次の全地方をお見せになった。ギルアデをダンまで、(1)

 

 主はモーセに彼の民の将来の祝福を語らせ、主ご自身が彼の目に見せられた。役割を終えたモーセが見たものは、彼の働きの実である。彼自身がその地を味わうことは無いけれど、そこには確かに彼が主と共に働いた祝福が広がっていたのだ。

 

今は聖書に永遠の未来が記されてあり、キリストを信じる者にはみことばの約束である永遠を、体の死を通って辿り着く祝福を知ることができる。

 

そして主は彼に言われた。「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに『あなたの子孫に与える』と誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたがそこへ渡って行くことはできない。」
こうしてその場所で、主のしもべモーセは主の命によりモアブの地で死んだ。(4~5)

 

モーセは主のさばきに「アーメン」と言って、死を経て民の誰よりも早く天に先回りしたことになる。
彼は天に迎え入れられた。それは地上をどれほど知るよりも遙かにまさる祝福である。 

見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。(マタイ17:3)

 

主は彼を、ベテ・ペオルの向かいにあるモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知る者はいない。
モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。(6~7)

 

彼は年寄りだから死んだのではなく、神のさばきによって時が来たのだ。神にたまわるさばきが、その時人の目にどのように見えようとも愛から出たことである。神は愛だからである。

不信仰による死の滅びは、神の救い主を拒否する人の自由の中で選び取った結果である。

 

イスラエルの子らはモアブの草原で三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。こうして、モーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。(8)

 

人は神のご計画を知らないので、目で見たところで神につぶやいてはならない。モーセは命を捧げてつぶやかず、従順して役割を全うした。このことによって、モーセの死に民も静かに喪に伏すことが出来たのである。

 

ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満たされていた。モーセがかつて彼の上にその手を置いたからである。イスラエルの子らは彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行った。(9)

 

モーセがたまわっていた最高の知恵は、神に聴き従う霊である。みこころを悟る霊である。彼は主に命じられた通りすべてをヨシュアに譲り渡した。

ヨシュアの必要を満たすモーセの手は、弱さの中に完全に働く神の人の手である。

 

モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は、主が顔と顔を合わせて選び出したのであった。(10)

 

主に召し出されたときモーセが問うた「私はいったい何ものなのでしょう」(出エジプト3:11)に対する主の答えのすべてが此処にある。


その時モーセは自分を知らなかったが、主は彼をよくご存じであったのだ。
主に呼ばれた時は自分を見て恐れまい。造り主なる主がすべてご存じだからである。

 

それは、主が彼をエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行わせるためであり、
また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力強い権威と、あらゆる恐るべき威力をふるうためであった。(11~12)

 

事を成し遂げるのは神である。主はご自分の計画を成し遂げられる。心配しなくても人の愚かさや罪深さによって、神の計画を妨げることなど出来るわけがないのだ。


用いられることは主に造られた者の光栄であり祝福である。それがどんなに細やかな事柄であろうとも・・、それは神が私を覚えていてくださることだからである。

 

モーセのように戸惑いつつ踏み出したことであっても、主が成し遂げさせてくださる。彼の手の力強い権威もあらゆる不思議も、満たされた従順の霊に信頼して一日毎に聴くみことばに拠ることである。


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