石ころ

弁護者 (Ⅰヨハネ2章)




「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。
兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。(Ⅰヨハネ9~10)


 罪なきイエス様が全人類の罪を負って十字架で死刑となり、神様に対して人の罪は完全に処理されている。
この歴史的事実を信じている者がキリスト者である。
その私たちを、キリストである弁護者が、「この者の罪は、十字架でわたしが処理してあります。」と宣言して下さり、神様は「では、あなたは清い。私の子として光の中にいなさい。わたしのものはみなお前のものだ。」とすべてに加えて、助け主である聖霊をくださる。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。(ガラテヤ5:22~23)

聖霊の実を受けると、それまで知らなかった種類の愛を自分の中に経験するようになる。
キリスト者の交わりは、神様の光の中にあって裏表がなく、自由であり、神の戒めにも安息してくつろぐことができる。
それは、互いにいつも弁護していて下さるイエス様を知って居るので、自分の正しさを言い立てる必要がなく、気楽に愛し合うことが出来るからである。


 先日ふっとしたきっかけで「嗤われた」ことを思い出した。「何がおかしいのだろう。なにを知って嗤うのだろう?」程度のことだけれど・・、それでも記憶として残って居たものが出てきたのだ。
その時主が、「お前は嗤わなかった」と言われた。「確かに・・」と思った瞬間、「感謝せよ!」その言葉にハッとした。

気付いていなかったけれど、私はあの時イエス様の守りの中にあったのだ。私が人を嗤うことに思いの及ばない者であることで、「思い」が守られていたのだと・・。
また、じきに忘れてしまう清めも、光の中にあって備えられてたのだ。そうして今思い出した時、平安を与え主への信頼を増してくださった。

人が愛し合う関係は、神様の愛の現れである十字架の救いを受け、イエス様によって常に弁護して頂いて、光の中でくつろいで居るからこそ可能なのだ。
頑張りや努力ではなく、ただ光の中にある神の子であれば、清い霊の実を結ばせてくださる。それは主のご真実によることであった。

イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。(1ヨハネ5:1)

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