三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:46)
十字架上のイエス様を御父が捨てられたのは、人の罪を負って罪人となってくださったことによるのだけれど、それだけではなく、もうひとつの意味があることに気付いたと姉妹が話してくださった。
それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。(マタイ19:5)
それは結婚の奥義によることであり、キリストの花嫁を迎える準備のためであると・・。
私は「ああ、良く分かる。」と言った。十字架は、キリスト者(教会)をキリストの花嫁として迎える入り口なのだから。
私も一つのことが開かれた。
人の孤独がどれほどであっても、御父を離れてひとり世に下って来られたイエス様ほど孤独ではない。私たちはこの世に生まれた者なのだから・・。けれども人もその孤独を味わっている。どれほど賑やかな交わりにいても、それらが風のように過ぎ去るような孤独感がある。
人もまた、造り主である御父から離れた孤児であり、淋しさに幾らかの違いはあっても、皆世で満たすことのできない心の空洞を抱えている。
イエス様の約束の日まで、孤独の涙を心の底に溜めて生きて行くのだ。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。(ヨハネ14:18)新改訳
キリスト者が天に召された時、御父が拭ってくださる涙とは、孤児の涙であることに気付いた。
しかし、イエス様も経験してくださったことなので、私たちの悲しみを知って居てくださる。だから再び来てくださる日まで、みことばによって力づけていてくださる。
玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」(黙示録7:17)
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