石ころ

良い働き





 人は、聖霊の助けによって良い働きをすることがある。しかし、イエス様は良いわざをもって世の王とはなられなかった。極悪人のように最も過酷な刑である十字架にかけられたのである。
このことは、今キリストのわざを成したとしても、それが必ずしも好評を得て終わるわけではないことを現している。世はどん欲に自分の満足を求め続けるから・・。

もし、世の評価を追い求め喝采に留まろうとするなら、どんどんキリストからは無縁のものとなって行くしかないだろう・・。イエス様が世の喝采の中にとどまることなどありえないように、私たちもそこに居続ける者ではない。
そもそも、その良いわざが主から出ている事を知っているなら、ひとり世で好評を得ることには、ずいぶんと居心地の悪い思いをするものだ。

 主に在って真実であろうとするなら、イエス様を「ホザナ、ホザナ」とエルサレムに迎えた民が、数日の内に「十字架にかけろ」と叫んだように、世に手のひらを返す非難をされたとしても驚くことはいのだ。イエス様がそうであったのだから・・。
もし、世の評価に留まるための方法を模索するなら、聖霊によって始まったことが変質してしまうことになるだろう。

主に拠って始まった良いことは、人の評価にはよらず「主に在る」ということにおいて価値がある。
人はいつまでもそこに留まる者ではなく、用が終わればさっさと主の置かれたホームポジションに戻るべきである。主に在る者が、いつまでも世の良い行いに忙殺されていてはならない。
キリスト者は世に良い行いをするために居るのではなく、主のご用を果たすために御前に居ることこそが重要なのだから。


まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14:12)

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コメント一覧

ムベ
電気屋さんコメントありがとうございます
「アーメン」感謝します。
知らず知らずに罠にはまってしまうことがありますから・・。
ムベ
まこさんコメントありがとうございます
パウロが礼拝されそうになったとき、自分の衣を引き裂く箇所がありますね。
ちょっと大げさですけれど、欠片でもそんな雰囲気を感じるとき、すべてを引き裂きたいほどに恐れを覚えます。
気をつけていないと、敵は実に巧妙にすり替えてきますから・・。
電気屋
まことにアーメン

特に

「主に在る者が、いつまでも世の良い行いに忙殺されていてはならない」

フムフム、そうだよね~
まこ
コメント訂正します。
イエス様につくではなく、イエス様に在るの間違えです。
まこ
誠にアーメンです。

>そもそも、その良いわざが主から出ている事を知っているなら、ひとり世で好評を得ることには、ずいぶんと居心地の悪い思いをするものだ。

これ、本当にそうですね。
自分じゃないのに、イエス様がしてくださったのにって、心に感じるでしょうね。
賞賛を受けて、どうかんじるか、一種の試金石だと思います。
褒められたら、素直にうれしいのは人情ですが、
もてはやされるのを喜ぶのは違う気がします。

山上のイエスのお言葉は、真理です。
イエスに着く者が世に嫌われ憎まれるのは、摂理だと思います。
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