お正月が開けてから、この世のことでなんとまぁ忙しいこと・・。けれど大丈夫、イエスさまはその日その日の必要を満たしていてくださり、私は一日分ずつこなして行けばよいのだということを体験していた。
ある時は丁々発止とやりあったり、ある時は懇々と説明させていただいたり、また多くの人の中で結構自由に楽しくふるまったり・・、今日は命令口調にこき使われたけれど、この世のどんな場面ででも、私らしくそこに居ることができた。
この数日は、その中の一つのことだけでも神経も使うし、うんざりする内容なのだけれど、なぜか思い煩うことはなかった。
だた、主に信頼して臆せず前進するだけ・・。
私はイエスさまの中に居り、私の中にイエスさまが居て下さるということをずっと味わっている。
罠に嵌ったと感じたり、愚かさや失敗を突かれる場面もあるけれど、そんなことは主の備えの前には、毛ほどの支障もないのだと私は信じている。
本当に、主よ。感謝します!
でも、そろそろ、ぼぉっとしていたい・・。
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。(マルコ9:19)
このような日々にあって、イエスさまのおことばに思いを巡らせていた。
そう、世に信仰はない。からし種ほどの信仰もない。たとえイエスさまにお出会いしたとしても、私たちの内に信仰はない。弟子の中にもない。
では、イエスさまは今もこのように言っておられるのだろうか・・と。
いいえ、今はそうはおっしゃらない。
今はイエスさまの信仰を頂いて、ある時小さくても嬉しい実を見せて頂くことがあるではないか、だから・・
「いつまで・・」とおっしゃったその日は、十字架までなのではないか・・。
イエスさまは不信仰をも十字架であがなってくださり、今、主により頼む者は聖霊の助けによって、主の信仰を頂いてそれを生きることができるのだから・・、
イエスさまが十字架を満足なさった一つのことは、ご自身がすべてを成し遂げ、完成してくださったことによって、もう、人の不信仰を嘆きなさることはなくなったからではないか・・そんなことを思い巡らせている。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。 (イザヤ53:10~12)
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