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石ころ

モノローグ (ゲヘナのこと塩のこと)マルコ9章から



 イエスさまさまがお弟子たちにゲヘナの話をされた。とても厳しいお言葉だったので思いを巡らせていた。ゲヘナの話なんてほとんど聞かないけれど・・。

もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。

もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。(マルコ9:43~48)


 イエスさまを知っており、救いの中に居る者がゲヘナに落ちることがあると言われているのだ。こんなにはっきりとイエスさまが語って居られる・・
イエスさまに出会っても、なをつまずいてしまうことがあるのだ。十字架でもあがなえないことがあるということ。

すでにあがなわれている者、主に在る者をつまずかせるものとは何なんだろう・・って考えていた。
けれど、それは自ら選択しているのだろう。主の愛に居る者を主から引き離すことなど、なにものにもできないのだから。

すべては、火によって、塩けをつけられるのです。
塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(マルコ9:49~50)


 火によって塩けをつけるって・・火って聞くと神様の裁きを思う、最大の裁きは十字架。私は十字架を通ってすべてを新しく造り変えられた・・そう、塩気を付けられたのだ。
罪の重荷の中で朽ち果てて行く生き方から、救い出されて聖くされたのは主の十字架。

私は魂に生きる者から、霊によって生きる者へと変えられた。塩気を保つとは、生かされた霊の内に留まりなさいと言うことだと思う・・。
霊の内に在るならどんな環境ででも、伸びやかに生きることが出来るのだ。

また私が意識をしてもしなくても、内にある塩分は回りに浸みて行くだろう・・キリストの香りが・・だってそれは、人の努力などで取り繕うことが出来ないものなのだから。
不信仰の世にあっても、そこに主の意図を感じて和合して暮らすこともできるだろう。


 恐れるべきものは、外ではなく自分自身の内にあった。
世に向かって伸びる手、それは切り落とさなければならない。世を慕ってふらつく足、それは切り落とさなければならない。世に目を奪われる時えぐり出さなければならないと主は言われる。いのちを守るために。

でも、これらの誘惑に対する主の守りはちゃんとある。
絶えずみことばのパンを食し反芻を繰り返している時は、思いも静かに主に向かっている。
そんな時は世の誉め言葉も、目の欲も、私の興味を引くことはない。
この守りは堅固な砦であり、主の羽ぶとんにほかほかと温もっているようなもので、虚しく移りゆく世のものよりも、このほうが良いに決まっているもの。

こんなふうに主に身を避けていることが塩気を保つってことなら、なんとまあ幸いなこと。
御父の愛が、イエスさまの愛が、私たちに満ちているではないか・・
いつまでも、いつまでも永久までも主に居らせて頂こう。


世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。(Ⅰヨハネ2:15)

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(Ⅱペテロ1:4)

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