石ころ

良い地、良い種、良い真珠 (マタイ13章)




別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。(マタイ13:8)
良い地に落ちた種はなんと幸いなことだろう。それは主の祝福の内に置かれたことなのだから。

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ30:21)
御声を聴き続ける者はなんと幸いなことだろう・・。近しく聴き続ける者はその身の幸いをただ感謝するばかりである。

あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。(マタイ13:16)
まったくそれは値なく主によってたまわったものであり、恵みによることである。この時代に生かされ、聖霊によって主を知ることを許された幸せ者。

まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:17)

良い地に、良き方によって蒔かれた麦はなんと幸いなことだろう。終わりの日まで見守られ、やがて取り分けられお側近くに収められる者はなんと光栄なことだろう。

どんな種より小さいものに在る、主のご計画の大きな望みはなんと幸いなことだろう。
取るに足りない者に、主は必要を満たし導いて望みにあふれさせてくださるのだから・・。
わずかな信仰のパン種が御手を通るとき、多くの人の養いとしてくださる主の恵みは、なんと感謝なことだろう。それが確かな望みであると知っている者は・・。

また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。(マタイ13:45~46)


良い真珠を見分ける目を開かれた者はなんと幸いなことだろう。その値打ちを経験した者は本当に幸せ者だ。
たとえではなく、みことばを経験する祈りをたまわっていることはなんと幸いなことだろう。

そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13:52)

主にたまわったみことばを豊かに蓄え、家族を引き連れて生きることはなんと幸いなことだろう。
内に居てくださる主の教えによって、キリストと共に生きることが赦されている者はなんと幸いなことだろう。


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