石ころ

当惑して聞き流さないで(マルコ6章)




 ヘロデ王はヨハネを牢につなで置きながらも、「正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていた」とある。ヘロデは、聖なる人の正しい教えと知って喜んで聞いていたのだ。
人は良い教えを聞くことを喜ぶし、心が洗われたように思えて、その時、徳を積んだような希望を感じるものである。

信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)


しかしそれはスタートライン。聞き流すだけでは何も変わらない。一歩も動いては居ないから、何百回スタートラインに立っても、走り出さなければゴールには至らない。
それだけではなく、ヘロデのようにそこで当惑している間に、罠に嵌ってチャンスが奪われるのは、種まきのたとえと同じ。

 ヘロデ王は地位に捕らわれて、自分のやりたいことができなかった。当惑している間に、殺したくない聖なる人を殺してしまった。人の上に立つ者は、持ち上げている人に縛られる。気に入られなければ落とされるからである。
ただ、高い所に在っても執着がなければ、経験となるだけで自由を奪われることはなく、この平安はあらゆる場合にたまわる聖霊による守りだと思う。

「当惑」するのは、立場を握り占めて駆け引きしているからで、秤に掛けるものを持たない者は惑うことはなく、それこそ主が予め備えてくださった守りであり、祝福である。
バプテスマのヨハネはみことばを指し示し続けて殺された。彼がそのように生きたからである。なんと光栄な生涯だろう。

キリスト者は担ぎ上げられる者ではなく、人を担ぎ上げる者でもない。頭なるキリストに在って、一緒に身軽にゴール目指して駆ける関係である。使徒たちのように侃々諤々の交わりの中で・・。

そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。
人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。(使徒11:4.18)




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