石ころ

神の子(Ⅰヨハネ3章)




 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(Ⅰヨハネ3:1~2)


 人は誰も完成された神の子としての自分を知らず、想像することすらできない。
まったく・・そのことで迷ってしまうのだ。今のさまを見るとき、どうしてこのような者が神の子であろうかと・・。
どれほど思い上がっているのかと・・そんなふうに、みことばを否んでしまうのだ。

しかし、このことははっきりと繰り返し聖書に書いてあり、神様の約束である。
そもそも、人の本来は今のようなものではなく、御子に似て完成された姿こそが本来ではないのか・・、初めに神様が創造された人である。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(創世記1:26)新改訳


 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Ⅱコリント5:16~17)


今の不自由な人は過ぎ去るものであって、キリストにあって新しく生じた人は神の創造のときのようなのだ。
それは、あまりにも及びもつかないものだから、人の介入などあり得ようはずもない。完全に主の新しい創造によるである。


 今朝玄関を開けると、ハイビスカスがほころび赤い花びらを覗かせていた。暖かいとは言え晩秋に・・と健気な姿に胸を突かれた。
でもそれは、備えられたいのちのままに咲いているのであって、喜んでいるように見え、みことばのままだなぁ・・と思った。

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
(Ⅰテサロニケ5:16~18)


神様の大きな御わざが、普通な日常の中にあって成って行く。それこそ奇しいことである。それもただ、キリストに身を避けただけの者にあって・・。
だからそのような日々に、少し健気にその日を待ちたいと思わされた。この花のように・・。

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