石ころ

何を見ているのか (マタイ11章)





さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。(マタイ11:2~4)

ヨハネの不安はイエスさまのうわさを聞いたことにあった。人伝の言葉は、ヨハネが初めから持っていた確信さえ揺るがす。人はうわべしか見えないから主に聴かなければ真実はわからない。
キリスト者は、聖霊によるみことばの交わりの中に在る時は、試練にも確信を失うようなことはないのだ。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(Ⅰコリント2:14)

イエスさまの行いが証明しているものを、曲げずに見る霊の目が開かれる者は幸いである。
イエスさまは多くのわざを行われたが、人々は目の前で成されるわざによってさえ、キリストを悟ることがなかった。

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(マタイ11:25~26)


大人は賢さと知恵によって「私は見える」というが、幼子は「見えるってなに?」と問う。そこに、主のことばに耳を傾けて成長する聖霊の導きがあるのだ。

すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:27~28)


主の選びは幼子の無学な弱さにあり、また世の重荷に疲れて主に来る者に在る。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)


私は幼子のような弱さの中で、世の労苦に疲れ果ててイエスさまに来た者。今イエスさまの永遠の望みの中で安らいでいる。
差し出すものを何も持っていない者の救いは主の一方的な恵みであり、主のくびきを負う者には平安がある。それは常にいのちの言葉を語り続けてくださるからである。

わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(黙示録3:11)

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