石ころ

弟子の条件⑧(ヨハネ21章)

 

この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。(1~3)

 

食べ物がない弟子たちは、ペテロの元の職業である漁に出て行ったが、なんと、何も獲れなかったなかったのだ。これはいくら何でも有り得ないことである。有り得ないことが起こるのは神の介入によることである。

 

聖霊を受けてキリストの弟子となった者は、もう世に後戻りはできない。救われる前のようには生きられないのだ。それは世の遣り繰りに生きる者では無くなったからである。ただ、神の恵み、神の養いによって生きる者とされたからである。

 

夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。(4)

 

彼らにはイエスがわからなかった。
困難に行き詰っている時、みことばを持って前に立っておられるキリストに気づきますように・・。みことばはすべての必要の備えであるから・・。

 

イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。(5~6)

 

イエスは「子供たちよ」と呼びかけられた。神の子どもの面倒を見てくださっているのだ。しかし、彼らにはイエスがわからなかったのだ。
私たちは目の前の問題に遮られて、イエスが見えなくなることがある。途方に暮れる時みことばに従うよう、御手の中に落ちるように追い込んでくださる。

 

まるで、雛に巣立ちをうながす親鳥のようである。雛が飢えて餌を求め、勇気を振り絞って飛ぶように・・。弟子たちも閉じこもっていた部屋から出て来て、み言葉に従ったのだ。主は鈍感な私たちをも導いてくださる。此処にキリスト者の平安があるのだ。

 

そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。(7)

 

一転しての大漁という有り得ない恵みを見たとき、それは神のわざであることに気づいたのだ。私たちは恵みの中で、キリストを知ることを主はご存じで、飢える者を恵みに満たしてくださっている。

 

ペテロはもう魚はどうでもよかったのだ。魚よりもその恵みの主を求め、上着を着て水に飛び込むなんてあきれたことをして、彼が舞いあがっていたことがよくわかる。
しかし、彼は、この大いなるわざを見て、神のキリストを礼拝したかったのだろう。

 

こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。(9)

 

弟子の空腹を心配して、温かい火を起こして魚を焼く準備をし、パンを備えてくださるのは神であるキリスト。
イエスの居られる所には、いつも豊かにありあまるほどのパンがある。すべての弟子を豊かに養ってくださる備えがある。

 

霊も、魂も、体も、そのすべての必要を満たす、みことばのいのちがあふれている。弟子は、キリストの備えてくださったいのちによって、養われて成長し永遠を生きる者である。


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