キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。(5)
キリストのすべては御父への従順によって成された。大祭司に任命された神に従って、神と人を繋ぐために、無力な赤子と成って地に下ってくださった。
彼は神であるのにご自分では何事も判断されなかった。彼は天の軍勢を呼ぶこともできたのに、ご自分を守られなかった。彼は決して反論も反証もできないことばを持っておられるのに、それを語らず十字架に向かわれた。
ただ、神から発したことばを語り、神の愛の御わざを行って、間違いを指摘して悔い改めを教えられ、完璧な従順によって、十字架で神の御計画を遂行され、信じるすべての人を罪から解放された。
キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、
神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。(7~10)
イエスさまの歩まれた生涯は、全き神への信頼と交わり、聖い従順、完全な自己の死であった。
祈りを持って神のことばを聞き続け、神の愛をことばと行いによって示してくださった。
それは大祭司の役割として、後に祭司となるキリスト者を導くためであった。
キリストは神のみこころによって完全な人となられ、人に仕えて生きて、人として祈り、人として神に叫んで、人として罪を負って処刑されてくださった。
それはすべての人への神の愛の現れであり、此処にキリストの敬虔を学ぶのある。