あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。(12)
イエス・キリストについて、もっと聴かなければならないことがあるのに、聴くことが出来ないのは成長しないからである。
乳は母によって、食物を選択され、調理され、咀嚼され、体内で安全な状態に加工されたものであって、それを口まで運ばれて飲むのであり、乳児は何の責任を負わない。
食物を吟味したり、選択する必要もなく、自分の体調や、成長のために栄養に気を配ることもしない。
ただ、与えられるままに飲んで腹を満たし、空腹になれば泣いて知らせるだけである。
洗礼を受けて数年は聖書を、日々の学びのような手引き書に従って読んでいた。「聖書は自分で勝手に解釈すると危険」という忠告を聞いたからだった。
それらに頼らず自分で読むようになると、自由の中で貪るように乱読したり、立ち止まって同じ箇所を読み比べたりを楽しんだ。
決められた通りに読んでいた頃は宿題のようで、それも知識として大切だけれど、きちんとこなすことが信仰のようで、成果は目には見えるけれどそれだけだった。そこでは失敗もないかわり、大人への階段を登る冒険もない。ある意味、乳は母が味わったものであって、手引き書も解説者が味わったものだった。
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(13~14)
自由に聖書を読む時、責任は自分にあるという緊張感がある。その時々の必要に応じて読む箇所を選んで、想像を膨らませて味わうこともあり、また、内容がよく理解できないままにじゃんじゃん読み進んで、「読書百遍意自ら通ず」を試したりした。
それは大いに意味があった。聖書は単に意味が理解できたら良いというものではなく、必要な時に思い出せることが重要であって、聖霊が他のみことばを思い出させて教えてくださると、「ああ、なるほど」と、それはそれは嬉しいものだ。それは人に教えられては経験できない発見である。
聖霊は倉に溜めたみことばを必要な時に思い出させて、生けるいのちの言葉を身に着けさせてくださる。
主に聴きながら読む時、忍耐して待つことも必要だけれど解かれた時は倍嬉しく、待つ時間もどんどん短くなって行く、「主よ。これはどういうことですか」と願うなり、解くみことばが示されるようになる。それは、主との親密な交わりの時なのだ。この密室の交わりがあるから平安が守られるのである。
あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(1ヨハネ2:27)
信仰の先輩方が、丁寧に準備されたメッセージを聴くことはとても楽しく、その知識を教わることも貴重であるが、その時一番嬉しいことは、大好きな方のことが話される喜びである。
「アーメン」「アーメン」と声を出し、「私も知っている!」なんて言いながら・・。これはYouTubeならではである。
主の宴会に同席させて頂いて居るようように、メッセージを味合わせて頂くことは感謝いっぱいで何時も楽しみに待っている。
でも、自分でみことばを読むことをすべて勝って優先するし、自分で聴き取った主の導きを私は優先している。
自分で主に聴くことが堅い食物であり、自分でみことばに従順してゆくことが訓練だと思っているから。間違いは誰にでもあると思うし、聞き違いもあり、知識の無さによる失敗もあるが、それでも、自分の信仰の責任が自分にあっても、それが怖くないのは、導いてくださる主に信頼しているからである。
ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。(6:1)