先日息子に「イエスさまの弟子の中に、ヨハネって二人居ないよね。」と訊かれた。一瞬バプテスマのヨハネのことかと思ったが、彼の疑問の出所はヨハネの変わりのようだった。
しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。
弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」
しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。(ルカ9:53~55)
このヨハネと、愛を語り続けたヨハネの手紙が繋がらなかったのだ。
初め、彼らはイエスさまに「ボアネルゲ(雷の子)」と呼ばれていた。もともと彼らの性質は荒々しいものだったのだろう。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
みことばの養いによって人は変えられるのである。「誰でも」とあるのに何時までも変わらない原因は、「キリストのうちにあるなら」という言葉にある。
キリストのうちに居ないから変わらない。その心が世の気遣いの中に、どっぷり浸かってしまっているからである。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(Ⅰヨハネ3:2)
「キリストのありのままの姿」はみことばに見るのである。聖霊の働きの中で絶えずみことばに触れていると、いつの間にかキリストに似た者と変えられて・・そう、みことばを通ってキリスト色に染められるのだ、それは主に拠って新しく生まれることでもある。
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。(ヨハネ6:57)
みことばの約束がその人のうちで確かなことばとなり、選び取っていのちとなり、御父を「アバ父」と呼び、「神の子」とされたことに、ただ、ただ深い感謝を持っており、「永遠のいのち」の希望があり、いつも「内住の主」との交わりの中に住んでいる。
そのすべてを通して神に愛されていることの平安があり、世を恐れないのは主の愛の確信によるのである。
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ3:10)
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