みことばが忠告していることを、自分のことと捉えられないことは悲しい。それは、聖霊に導かれなければ不可能なことだから。パリサイ人も偽牧者も自分が責められていることに気づかないのだ。羊飼いのふりをしている偽の牧者とは、少し違っているだけ、ちょっと足りないだけなんかではなく、強盗であり盗人であると書かれていることに改めて驚く、この言葉をどんなにか軽く読み過ごしていたことかと・・・。
教会を、安らかに出入りすることと、養いの牧草を見つけることとは神様の約束。なんとその約束を奪われている人の多いことかと胸が詰まる。saltさんのメッセージを聞くとき、いつもみことばに新しい発見を教わって嬉しい。それは本当に、主の牧場で豊かに養われるいのちの満足感。
でもそれは、「何も特別なことではなく、ちゃんと聖書に書かれていることであり、誰でもきちんと読めば分かることです。」と言われる。けれど、噛み砕いて忠告されやっと気づくことが多くある。今週のメッセージもみことばを丁寧に、鮮やかにヨハネの10章を解き明かしてくださった。いつも間近に聴くことが出来て、おいしく調理されたみことばのご馳走に満腹することができる幸せを主に感謝する。すべては「神より発し、神によって成り、神に至る」ことだから。
今日は花見客で電車が混雑していたり、ちょっと遅れていて乗り換えが大丈夫かとヒヤヒヤ、ドキドキだったけれど、ちゃんと礼拝に間に合った。毎週の礼拝は決して同じことの繰り返しなどではなく、時々どきどき、はらはらがあり、それは主のお導きの確かさを味わう時となって感謝となる。
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