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石ころ

「幸福論」(第2部)から②


「絶え間ない憂いから逃れる道があることは、これでわかったであろうが、それと同時に、個々の、また、ひんぱんに生ずるある憂いは、われわれの生活に必然的なできごとだということも明らかに知らなければならない。・・・憂いなしに人間生活はありえない。」

「キリストすら弟子にこう言っている。『あなたがたはこの世では、なやみがある』と。彼は弟子たちに、ただこの悩みに満ちた世に打ち勝つことだけを約束している。

「われわれが憂いを持たなければならないのは、三つの主な理由からである。
第一に、傲慢や軽薄にならないためである。憂いは時計の振り子であって、人間という時計の進み方を正しく調節するものである。」

「その上、不幸は、多くの場合正しい道を踏んでいない人たちを救う唯一の手段である。」

「憂いを持ちながら、いや、しばしば多くの憂いを負いながら、こころ憂うることなく生きること、これこそわれわれが修べき生活技術である。
たいていの人の考えによれば、富は憂いから解放するものとされているが、富にはそうした力はない。キリスト自身がそう呼んだように、それは一つの惑わしである。」

「第二の理由は、他人に対して同情を持つことが出来るためである。」

「第三の理由としては、神を信じてその助けを求めることを力強くわれわれに教えてくれるのはただ憂いのみだからである。

なぜなら、われわれの願いが聞き入れられ、その結果憂いから解放されることこそ、神の存在を確信せしめる唯一の証明であり、同様に、キリスト教が真理であることの実証であって、キリスト自身そうするようにすすめているのである。

従って悪い日が実はよき日である。悪い日がなかったら、たいていの人は決してまじめな思想に到達することはないであろう。」思想ではなくて、真理を求めることはないということだと思う。

「だれでも、何かを持っているときは直ちにその様子で分かるものだ。その人自身に敬虔でない表情を与えるのである。」(ブルームハルトの言葉)

「さらに憂いからの解放、すなわち、人が山のような重荷を肩から下ろした勝利の日は、疑いもなく人生の最も幸福な瞬間である。神が、神を信ずるものに対して真に恵み深くあらせられるならば、そのような幸福の瞬間を必ず彼らに与えたもうにちがいない。」

「スパージョンがこう言っているのは正しい。『もし、神に本当に信頼するならば、神の初めのうちは、われわれが恐れていたよりもよい方であり、次にはわれわれが希望する以上によい方であり、最後にはわれわれが願う以上によい方である。』憂いは、常に、神に従う者に取っては、それが彼らにとって果たすべき使命を持つ間だけしか、続かないものである。」

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